アジアクルーズ日誌

5日目:寄港地 アモイ

投稿日: 2012年4月3日

20110128 

二度目、八年ぶりの寄港地アモイ。今回のアジアクルーズでも、最初の寄港地となる。
下船時間に遅れないように、朝食を終えないといけない。
早朝尿の検査をしたおかげで、6時には起きて、歯を磨いた。
客家の土楼行きのバスに乗るため、妻も早めに起きた。


朝食は、いつもより簡単に済ませた。
妻は、6階でパスポートと二枚のコピー、そしてミネラルウオーターを1本受け取り、
乗船カードのバーコードを通して退出登録を済ませ、いそいそとイミグレに向かった。
客家は遠路のツアーになるため、最優先でイミグレを通るはずだ。
我々は、自由行動組だから、11階の船客から順に5階まで呼び出しを受けるまで待つことになるので、
フロントで両替をした。
ブラブラ歩きだから、3000円だけの両替で2200元をポケットに入れた。

念のため、メール受信を確認へ、パソコンルームに座る。
入港埠頭の位置が解らないという、BKKの石沢君からのメールが入っていた。
タイではレンタカーのドライバーには地方出身者が多いので、
クルーズ船の接岸地点などはおよそ縁もなく、知らないのだそうだ。
確かに、観光客船が常時接岸するバース(岸壁)を持っているのは、各国とも少ない。
大抵は、貨物船の接岸埠頭と同じで、一般の人には縁もない辺鄙な場所が多い。
フロントで竹内さんに接岸バース周辺の地図を出してくれるように依頼して、ライブラリーに戻る。


既に、椅子の少ないライブラリーで下船待ちの人たちの立ち話が姦しい。
聞くともなしに、船客の会話が耳に入ってくる。
「お早うさん、今日はどうするの?」

「バカみたいに、またコロンス島よ。もう5回も来てるのにね、コロンス島よ」
「お好きなのね、ピアノの島が」
「いいや、ここ、行くとこ無いからなのよ。お茶も沢山買ってあるし」
「あら、あの高いお茶?いかがでしたか?」
「美味しかったけどね、日持ちが悪いのよ、あれ。来るお客さん、来るお客さんに出して、すぐ飲んじゃったわ、ほほ」
「海南島は、10年前に来たんだけど、今回はどうやろ、暖かいかねえ」
「ラ・ニーニャとかなんとか、の影響で、どうかねえ?」
「中国のイミグレは、待たせるんだよ、もったいつけて」
「意地悪だね、ありゃあ」
「海南は、不動産屋がどんどん埋め立てていてね。あそこには、軍港が出来たんだが、
ありゃあ、中国最大の艦隊基地ですよ」
「ここから台湾呑み込んで、日本を狙うには、格好のポジションだからね、
なんとか、民主党の防衛大臣も、先を読んでくれないと大変なことになる」
「既に、後手だね」ルルル・・・。
「あら、やだ、まただわ。私がまだ神戸にいると思うてるんよ、ハイ、ハイ、あらあ、奥さあまぁ」
吹き抜けホールから流れてくるアナウンスが8階、6階と徐々に降りてきて、三人五人と船客たちの姿が消えていく。

ようやく5階の我々が呼ばれた。
ギャグニーを出て、イミグリへ続くプロムナードから後ろを振り返ると、白い船体が眩しい。


ドック入りしていたと言われて、なるほどと頷けた。傷もなく、きれいな船体だ。
見回してみて、8年ぶりのアモイの変貌ぶりに驚く。
曲線が重なった屋根に総ガラス張りの洒落たビルになっていた。
シンガポールのハーバー・フロントセンターにも劣らないほどだ。
これが未だ完成には至っていなくて、予定の規模の半分だそうだ。
新幹線が開通したので上海からの観光客が大挙流入し始めて、
観光都市としてのアモイは飛躍的な経済発展をしているのだそうだ。
イミグレ前で列んでいる荘輔さんがシャッターを切った。
彼も、僕と同じく、20006年以来の入国で、アモイの変貌に眼を見張るものがあったのだろう。
しかし、腕を伸ばしてカメラを付きだしていた姿を見られたか、瞬時に女性の公安が駆け寄ってきた。
撮った1枚を公安に見せた。削除するから勘弁と日本語でしゃべる。
ところが、そう言った荘輔さん、削除の仕方が解らない。慌てて僕がカメラを受け取る。
該当写真を怒る彼女に見せながら、目の前で削除した。
今回だけはというしかめ面で公安官は渋々戻っていった。デジカメ時代で良かった。

フランコ政権に抗議するデモ隊を撮った40年も昔のスペイン観光の頃を思い出させた。
あの時は、レスラーのような大男のSP二人に両腕を掴まれて、フィルムを抜けと強制された。
なんとか、観光客であることと、宿泊先のホテルのルームナンバーを教えることで、腕を放された。
何かあったら、ホテルに訪ねるとまで言われた。承諾した。
この時は、170ミリの望遠レンズを付けたミノルタと、それにもう1本カメラをぶら下げていたから、
プレスマンと間違えられたのだ。異国で無闇にレンズを向けると面倒なことが起きやすい。
台湾全土を観光客誘致の為に、日本アジア航空の仕事で6年間ロケした時、
陸海空軍三軍の総司令部からの許可証を携行していても、
港湾にレンズを向けただけで、憲兵が望遠レンズの前を遮ってひと悶着した。

シャトルバスの出発を待つ間、ターミナルビルの中を眺めていると、
なにやら電気トンボ(UFOだったが)が、吹き抜けの空間を飛び回っていた。
観光客が足を止めて天井を仰ぐ。
遊んでいた子供たちが手を挙げる度に、触れてもいないのにUFOがふらりと上がっていく。
観光客がそれを観て、驚く。
ぼくもその一人だった。センサーが働いているのだろう。
二人の男が買わないかと近づいて来た。子供をデモに使ったのだ。
孫への土産にいいかと思って「トウシャンセン?」と訊くと、「イーパーユエン(100元)!」と言う。
市内観光してから帰りに買うと、口に出したが、そこまで福建語は出来ない。
指先アクションと日本語だった。チンプンカンプンだと男は肩をすくめて退いた。
丁度通りかかったガイドの許さんに、このことを訊いてみると、100元は高い、あれは30元でいいわよと。
同じ玩具がデパートにあるかもしれない。街歩きで探す楽しみができた。

昼食は船に戻って食べることにして、午前中だけ歩こうと、シャトルバスに乗る。
かつて訪れた時の風景とは異なる、


見慣れない新地のようなアモイを、中心街に向けてシャトルバスは走った。
マンションやホテルの高さと美しさは、既に新しいアモイだった。
マンション価格は、1㎡が約1万(15万円)~2万元だそうだが、中国では、マンションは70年という一代限定である。
だからこそ、いま、中国人の富裕層が一族の財産になるとして、日本のマンションを買い漁るのだ。


海水を堰き止めて造ったという人造湖を左手に、湖浜西路を走った。
アモイは白鷺が飛来する島だったので、今でも「鷺」の文字が名前に入っている人は、
80%アモイ出身者だと判るとか。
丁度、その白鷺路に入った。公安系の車両ナンバーは白。商用車は黄色、一般車は青。
汚れた車が少ないのには驚く。どれもワックスこそかけていないが、水洗いが出来ている。
一時の日本のように、相当な財産と見なしているのだろうか。
それにしても、舗道に乗り上げた大型乗用車が何台も堂々と斜めに停められて、
歩行者は、車の鼻先と塀の間を仕方なく黙々と歩いている。
それだけではない。空いている舗道は、バイクまでもがかなりのスピードで走る。
そうかと思うと、道路を後部座席に箒を縛ったバイクで男性が、片手はハンドルを、
もう一方の手には長い挟み棒を持ち、道路をゆっくりと走りながら、巧みにゴミをつまみ上げて走る。
舗道に備わっているゴミ箱で停まり、それを入れ込む。
その作業が、併走している我々のシャトルバスの横で、リズミカルにこなされていく。
許さんに訊くと、彼は、ボランティアではなく、時間制で働く職業人だった。


街路樹の多くは、鳳凰木で、黄色の葉が落ち、赤い花が咲く。
7月下旬と9月の2回、アモイは街全体が一面、赤くなる。
新入学と卒業の時期なので、縁起がいいのだとして、大学には必ず植えられてあるそうだ。
ガジュマロの樹木は、福建省のシンボルで、「幸せを運ぶ木」として、切ってはならないものとされている。
アモイのシンボルは、それとは別で、ピンクのブーゲンビリアンだ。


シャトルバスの往復起点は、中山路の華僑大楼というホテルである。
港から繁華街までの無料のシャトルバスは、その多くをホテルやデパートにしている。
トイレの借用と休憩設備があるからだ。
ホテルのロビーは、正月飾りがしてあるものの、宿泊客の姿は見当たらない。
トイレを下見した。ナフタリンの匂いが強烈だった。

ホテルを出て、バスから眺めた中山公園に下りてみる。
「公園の中で、太極拳やフォークダンスをやっているのが見えた。
槍や刀を使いながら、父親に教わっている娘さんがいたなあと」と言ったら、歩いてみようとなったのだ。

公園の入口には、長い机を相対して人が座っていた。
横断幕をみると、どうやら、子供の進学を相談する親と教師の青空相談所が開設されていたのだ。

 

中に入ると、正面に孫文の大きな碑があった。
公園内は、様々な植物が群生していて、手入れもいい。
園芸学科卒の荘輔さんは、葉や落ちた実を見ては、その品種を教えてくれる。
妻がいたら、さぞかし喜ぶだろうなと思った。僕は、花にも鳥にもとんと興味がないからだ。
妻はそういった荘輔さんを尊敬している。
池水、堀があちこちに張り巡らされ、趣がある。子供の遊具は、「教育」「実験」という文字で解説文が書かれてある。
動物の乗り物でさえ、子供が上下する度に、バネで前進していく。
一人っ子政策を推進しているためか、公園の遊具類は、
どこかの教育研究者の指導の下に創られ設備されているように思えた。

塗り絵かと思ったものは、ステンドグラスのように、鉛でライン取りされて、カラフルに焼き上がる簡易ステンドグラスだった。
次世代の中国人の知能指数は侮れないなと、荘輔さんと感心しながら、写真を撮った。
中に、キティちゃんのキャラクターがあったのは、複雑な気分だった。

 

動物園もあった。
赤い大きな提灯が正月らしい風景を彩っている。
巨大な龍が植物で造られていたのも、正月を迎えるためである。
丸い将棋板もあれば、囲碁もあったが、多くの野外テーブルでは、シニアの男女がトランプゲームに興じていた。
時代は、こんなところにも変化が出ているのだ。


ある場所は、太極拳広場とでもいう彫刻像が立てられてあった。
武道を練習していた親子の姿はもう見られなかったが、婦人会の新ダンスとでもいう、
体を柔らかくリズミカルに動かす振り付けは、台湾に見られたそれと同じだった。


バスガイドの許さんも説明していたが、ここは、台湾との交流が深いので、
言葉は台湾語に近いミンラン語だし、商品も台湾からのものが多いと。
昔、ロケハンで上陸した台湾の澎湖島は、風の強い島で国境警備に当たる軍の要の島だ。
目と鼻の先だから、平和であって欲しいものだ。

随分公園内を歩き回った。歩き疲れたし、腹も減った。

昼食を取ろうと、一旦、シャトルバスで帰船した。

寄港地着岸の昼食は、どの船も多くが実に簡単なメニューだ。
船内乗船客の数が余りにも不定過ぎるからだろう。
何処にでも座れるほどに、閑散としている。
一番奥のテーブルに着いた。
二色丼とお椀サイズの蕎麦だった。
短時間の寄港地では、エクスチェンジする金額を少なめにしているせいもある。
余程、ここぞという料理が寄港地に無い限り、レストランを探し回る時間が勿体ないから、
船内食で、ゆったりする気楽さが何よりなのだ。
寄港地によっては、清潔感に不安があるので、躊躇するというのも否めない。
ましてや、中華系の食事は、醤油塩分を避けたい僕には口にするモノも少ないからである。
 

一旦船に立ち戻るメリットは、現地が予想と異なった気温差の時だ。着替えて出直すことができる。
さらに言えば、撮影したSDメディアをHDに保存出来る安心感しがいい。貴重な写真の削除ミスを防げる。

食後にパソコンルームに入った。BKKの石沢君からのメール確認だ。
同行する菅井夫妻を入れると乗員5人となるので、レンタカーを頼んであるのだ。
彼からは、「ドライバーの多くは、地方出身者なので、エアポートならまだしも、
港には不慣れで、着岸埠頭の位置が解らない。
シャトルバスで街に入るとき、地図を持参して欲しいと」と返ってきていた。
これは、フロントの竹内さんへ頼むことにした。

水上マーケットとウイークエンド・マーケット、どちらを優先したいかと荘輔さんに打診した。水上マーケットとなった。
これで、初日の日曜日は、我々だけがウイークエンド・マーケットにBTSで行き、
レンタカーで走る水上マーケットは月曜日となった。
美子さんアユタヤツアーは、もう一度、日曜日に変更となった。
初日、街から岸壁へ戻るタクシーに同乗するなら、船内見学をしてみたいかと打診する。
もし、興味があるなら、住所、生年月日、パスポートナンバーを申請する必要があるから返信が欲しい、と打ち返しておいた。

 

再び、シャトルバスで、中山路に戻る。
その交差点にそびえ立つのは、いわば、権力の象徴を思わせる警視庁ビルだ。
左に折れた中山路の商店街は、歩行者天国になっていた。
旧正月だというのに、ここの歩行者天国にも人出がない。
がらんとしている。日本人が目立つ。
我々の乗船客だ。膨らんだビニール袋を重そうに持って帰って来る古子さん夫妻に出会った。
「両替はしたものの、買いたい物がなくて・・・、これ、缶ビールを買い込んでしまいました」と苦笑いしながら、
袋を揺すってその重さをみせた。
ビール好きの荘輔さんも、教えられたスーパーで買って帰ろうと気勢を上げた。
右に緩く曲がった中山路の先は海に続いて居る。
黒山の人出を予想していたが、絵にならない。
デパートまでゆるやかな坂道を下る頃には、横道から湧き出てきたのだろうか、通りは人人人、黒山が蠢いていた。
歩行者天国の左右は、テント張りのTシャツ屋から、時計や爪切りの金物屋、
懐かしい台湾の寒天ドリンク、仙草を飲ませる店もあった。1杯12元とある。


台湾金門特産店、アモイ特産店には、フカヒレからイカ、ホタテまで様々な海産物、
そして、地元特産と言えば、お茶屋の羅列。
丁度、新茶の時期らしく、香ばしい香りを通りに漂わせていた。
あちこちに「高雄」の文字が眼に付いた。屋台のファーストフード店である。台湾小皿料理が受けるのだろうか。 
デパート広告に起用された男性モデルが、正面に大きく打ち出されているのを見ると、
中国と言うよりも台湾ではないかと錯覚しそうだ。やはり人気の男性タレントを起用しているのだろう。
カシオ、オニツカのショップも、デパートも数軒あり、目抜き通りの角のスポーツブランドショップ店は、
ナイキのスオッシュにも似たロゴマークだ。
やはりか、と、苦笑したものの、これから先、パクリ問題は、あらゆる商品で持ち上がって来るだろう。
なにしろ、HANDAのバイクも、SANYのラジオが有っても不思議ではない。
この国は「富士山」「越光」まで、商標登録されているそうだからだ。


露天では、木工の細工モノが売られていた。手の器用さには驚く。
気に入ったモノが有りさえすれば、飛行機の旅と違って、
心配せずに、こうしたものも持ち帰ることが出来るのが、船旅の良さである。
通り脇にブロンズ像が飾られている。そのひとつをパチリ。
日本でも縁日に見られる懐かしい飴細工師の姿だった。

来店5人なら1人は無料にしますという上野家日本料理店というのもあった。
夕食を食べる時間まで余裕があればね、と笑って通り過ぎた。
人だかりの輪の中を覗いてみると、青年が赤い短冊に客の希望する文字をその場で書いて売っていた。
正月に飾る縁起物だ。


親指の人形劇を演ずるアモイ人民劇場は、この通りにあった。
派手な彩りの宝籤売り場もあれば、こじゃれたフルーツジュースショップ、
輸入のビールも飲ませる仮設カフェも設けられている。
フェリー乗り場近くの出口、入り口?に近づいた辺りになると、人通りも正月らしいというよりも、
どちらかと言えば、生活者ではなさそうな観光客の群衆が往来していた。


フェリー乗り場から、対岸のコロンス島「ピアノの島」へ観光に出掛けるのだ。往路は無料で、復路に8元。
2階席で座ると有料で1元を要する。
つまり、往復座っての移動なら10元となる。コロンス島の左端には、巨大な鄭成功が立っている。


フェリーからどっと下りてきた観光客は、我々が歩いて来た中山路の商店街には入らず、
迎え出た観光バスに吸い込まれていく。
中山路の人通りの少ないわけが判った。
商店街への導線よりも、観光バスの駐車スペースが警視庁側に少ないことが、商店街の活性化を阻害しているのだろう。
2006年の時は、このバス停周辺は、地図の売り子たちが観光客に群がっていたが、
いまは、ちらほらとした目にしないし、彼らも大人しい。
「プヤオウ」と言えば、追いかけても来ない。新幹線が走り、観光客も多くなって、苦情が出たのか、
随分、官憲の規制が厳しくなったのだろう。
以前には見られなかったのが、地元の彫刻家によるあちこちに置かれたアモイ風俗の彫刻だ。
海を見つめている女性像は、恋しい人を今も待つ姿だと教えられたが、定かではない。
菅井夫妻が缶ビールを買うスーパーマーケットを覗きたいと来た道を再び戻る。
税関ビルで見たあのセンサー付き竹コプターをあちこち探し回った。
アルミ製の精巧なヘリコプターは売られていたが、それは見当たらなかった。


玩具店には、学習用コンピュータープログラムを楽しんで操作している子供達をしばらく見ていた。
一人っ子教育への期待と成長の先を想像させた。

スーパーストアは地下にあった。
せっかく両替した元をここで使っておこうと、ビール売り場へ真っ直ぐ向かった。


菅井家のビール好きは半端ではない。
自宅の居間には、ビール各社の5種類ほどのブランドが、カートンボックスを横倒しにディスプレイして、
あたかもストーブの薪のように置いてある。
だから、当然のように、ここでも青島ビールを1箱分欲しいところだが、持ち歩けないので1ダースで我慢。
缶ビール12本で、驚くなかれ700円である。
僕は、正月用のイラストがデザインされた青島を2缶と、大型サイズのコルゲートの口中清浄液。
目を見張ったのは、飴玉のように山と積まれた一口サイズパックのおつまみの多種類なことだった。

不二家も明治も、他に日本文字のままの商品が多くあった。文字が質を保証しているのだろう。
身なりのいい老夫妻が食べ慣れてでもいるかのように、バスケットに入れていた。

足を止めさせたことがあった。
オレンジカラーの繋ぎの制服を着た二人組のおばさんたちが、黙々と、床を掃除している。
飛散しているもの、こぼしたものを見つけると、駆け寄って、たちどころに、ゴミ箱に掃き寄せられていた。
サービスという教育が此処では、始まっているのだ。

ホテルロビーで17時発のシャトルバスを待つ。
タクシーは、3kmまでが8元、そしてガソリン協力費?が1元。
1kmオーバーする毎に2元、そしてガソリン2元が付加されていく。
港まで20元以内で帰れると知った荘輔さんが、足の悪い美子さんのためにタクシーにしようと言う。


助手席に座ってすぐに、ドライバーの名札を撮った。
時折、ヨーペンとか、イッツツオーとかの言葉をつぶやいた。
回り道をさせないという牽制球である。
ターミナルビルまで、タクシーは15元で着いた。
それに、ガソリン料を乗客がいくらか負担するらしく、2元を付け加えた。
乗ってみたから、判ったこともあるのだと、初日の自由行動を喜び合った。

18423歩。
毎日1万歩を歩く荘輔さんには、なんでもないことだが、美子さんが、途中で腰を下ろすほどだったから、推して知るべし。
菅井夫妻と歩いた街では、最長の距離になった。スペインのマラガ以来だ。

部屋に戻った。
だらりと体を投げ出し、TVを観た。
ニューヨークのタイムズ・スクエアは、雪景色だった。
頭の上まで積もったよと、レポ-ターが肩をすぼませながら伝えている。
NHKワールドのニュースラインの天気予報だ。いま、2℃だそうだ。
ベルリンもパリも-1℃で、ローマ、ジャカルタ、クワルンプールは雨。
我々はこれから、赤道に向かって南下する。

 

「疲れたああ」と妻が帰って来た。観光バスに疲れたという。
旧正月で大勢が帰省する交通手段に大型の観光バスが優先的に充てられ、残っているのは小型だけだったようだ。
前もって、サスペンションが硬いとは聞かされていたが、車幅の狭さで、左右の揺れも大き疲労を増したらしい。
毎年、民族の大移動の時期なのだから、大型バスの手配は難しいことは織り込み済みのはずだ。
恐縮した現地の観光社がお茶を土産に差し出してくれたと喜ばせるのも、予定通りだろう。
土楼へ向かう途中、バスが停車したトイレは、予想外にきれいで、
観光地は、コロンス島のように、カートが交通手段だったそうだ。ツアーでは、可児さんとも一緒だったという。

公園に家族連れで楽しんではいても、街には観光客以外余り出歩いてはいなかったと話したら、
2月1日の旧正月は、自宅で過ごすことが多く、
その3日前、29日から準備が始まり、半月後の15日頃に提灯祭りがピークになるのだと、
妻は、ガイドからそのわけを聞いていたそうだ。これが、いわゆる「中元」といい、「小正月」の事らしい。

18時半、初回の寄港地から予定時刻に離岸。
海南島までは沿岸航走だ。
アナウンスによれば、多少の揺れはあると、予告された。
日本から宅配便で持ち込んだ「神の河」の中から5本と、築地で予約しておいたクサヤを、菅井ルームに持っていった。
菅井夫妻は、晩酌をしてから夕食に出るのが、慣例となっている。
菅井夫妻が先年に観光した土楼観光との聞き比べは、19時の夕食時となった。


就寝前に、大風呂のスティームサウナに入りに出掛けた。
歩き疲れたのか、サウナの中で梨状筋のストレッチを行った。
明日は、公開日だから、体が休められる。

カテゴリ:アジアクルーズ日誌

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