アジアクルーズ日誌

12日目 ホーチミン

投稿日: 2013年9月2日

20110204 ホーチミン2

 朝とはいえない未だ深夜の 1時半、目覚める。次ぎに 3時半また目覚める。そして 5時半。妻が化粧を始めていた。 僕も起きて洗顔する。朝食は、 6時丁度に5 階から 7階へ上がった。

 

 クルーズ初めての早起きとなった朝食だ。

 

 下船してツアーバスに入ったのが、 20分前。バスの中は、充分過ぎるほどに冷房が効かせてあった。ナイロンのジャンパーを着込む。隣のバスに、可児さんの姿を見た。

 

 7時になっても、我々のバス5号車は発車しない。誰かが出遅れたか、取りやめた。 7時5 分、バスは 21名を乗せて高速に向かって走り出した。本日は 3台が併走。

 

 同乗ツアークルーは、「ぱしびの宝塚」と自他共に許す山口ナオ子さん。マイクを握ると、淀みのないシャベリでツアーの行程を説明しだした。 トイレ休憩は 1時間半を経過した辺りだとのことに、後ろの座席から安堵の息が漏れる。  サイゴンツーリストのガイドは昨夜と同じハイさん。

 

 昨夜のネオン煌めく街は静まり返っている。この理由が、しばらくすると判明した。夜にも増してのバイクの大洪水。 何かの撮影かとカメラカーを探して、振り返りたくなるほどだ。大人 3人は違反で、大人2人と子供3人の5人は容認されているというが、横幅 30cmしか空けないままに、スピードを上げて走る。 ヘルメットに、防塵マスクという姿だ。幼すぎる幼児は母親が横抱きにして後ろに乗っている。バランスは、両脚大腿部でバイクを挟んでいるのだ。 驚く筋力、凄い勇気。目を見張る。ひと組でも二組でもない。多くがそうなのだ。
 そのイナゴの大群のようなそれに加えて、中型のヒュンダイのワゴン車が、追いつ抜かれつ、追撃ゲームでもしているかのように走っている。  ハイさんが、笑いながら理由を説明した。
 元旦が終わって、これから、故郷へ帰る集団なのです。お爺ちゃん婆ちゃん待ってる、年に 1度、みんな集まる。 ホーチミンに働きに来ている大半は、田舎から出てきてる。だから、バイクで帰る。荷物は、もう前に送ってある。だから、身体一つで走っている。 しかも、今年のテトは、比較的休みが長い 1週間なのだそうで、この大移動が起きている。
 高速道路に入るとさすがに、バイク集団はいなかった。速度を増す。この道路は日本の技術に依るところ大だそうだ。乗り合いバスやワゴンは、座席が満員だ。 我々の観光バスの座席に余裕がありすぎるのが、申し訳ない気持ちにさせられる。
 そういえば、妻が出掛けたアモイのツアーバスは、大型ではなく、サスペンションが硬く、かなり疲労感があったという。理由は、春節で帰省する中国人のために、多くの大型バスが貸し切られてしまったそうだ。
 ベトナムに日本のヤマトが入って来たら、この季節の大移動は、一大ビジネスチャンスになる。但し、年に一回のチャンスから、その体験が慣れていけばだが、そのための経済基盤如何に依る。
 ホーチミンの人口800万人に対してバイクは800万台だとも、人口の 10%が所有しているとか、数字の把握は曖昧な説明だった。 特にホーチミン市での需要は、通勤ビジネスの足であるから、買わざるを得ない。そして、その70%は、ホンダだそうだ。中国製のバイクも一時期購入されたが、故障が不評で次第に販売力を失っていったようだ。
 確かに、これだけ必要品であるからには、頑強で故障の少ない耐久力のあるバイクでありたいのは、よく解る。
 ホンダの一般的クラスで15万円、高級クラスでは、 70万円という価格帯だ。
 免許は18歳から取得できるが、50ccなら無免許でも乗れる。このベトナムから、世界的なオートバイレーサーが出ても不思議ではない。 なぜなら、幼児の頃から、あのスピード感覚に身体が慣らされている。それも、毎日に近い頻度数で、動体視力も鍛えられているからだ。ガソリンは、リッター 70円である。
 都市での生活は、一流のビジネスマンは 5万円の月収を得るが、一般的には8000円ほどで、部屋代、電気代、食費などを含め、今では 1万円以上かかるほどに、苦しくなってしまった。

 

 道路標識は、昔は漢字だったが、今はフランス統治以降、横文字になったそうだ。 自分たちも、名前は漢字で持っていますと、ハイさん。「海」と書く。日本語教師の免許を持つ妻が、すかさずこう言った。 「そうよ、中国から伝わってきた当時も、ハイと発音されていたのに、日本人の受け止め方は、カイと聞こえたのよ、聞き違えて」。
 ホーチミンには、中華街があるが、中国人は 6万人が住んでいる。 因みに、中国語は四音だが、ベトナム語の声音は六音なので、有り難うを意味する「カムオン」も、発音が違えば、 乞食言葉で、「なにか恵んで下さいよ」という憐れな意味に変わるから、チュウイが要ると笑わせた。日本語と同じベトナム語があるという。 「注意」は、「チュウイ」、「治安」は「チアン」なのだそうだ。バスの中では、感心する声が出る。ハノイが標準語となるのだそうだ。中部地方の食べ物は辛く、南部は野菜が中心で食べやすい。
 今、走っている地域は、 90%が農業で、米はタイに次いでメコンが 2番目にあるという。 ハノイより北は寒く、春夏秋冬の変化があるが、南部は平均気温が25~27℃で、 5月から7 月までが雨季で、後は乾期だ。このため、米は「三毛作」が可能だというから驚きだ。

 

 刈り取った畑と深い緑の稲田が交互に続く。その中に、ぽつんぽつんと白い小さな石がある。石だと思ったら、墓地だった。 その畑の地主が亡くなった時は、農業に就いて他界したのだからと、土葬にして墓を造るのだそうだ。夫婦、親兄弟、一人一人が一つの墓だそうで、そういえば、いくつもそれのある畑が見られる。 桃色の墓、屋根のある墓。おおきい墓。それらは、裕福かどうかで決まる。 高速道路が走ったことで、夜間走行のライトの光が稲の生育に問題があることが判り、売って土地成金になる農家、稲に変わってバナナを植える農家、アヒルの養殖?と転身する農家が出てきたそうだ。

 

今日のメコン川遊覧ツアーは 一人5829円。網の目のような州に船が入り込んでいくというのは、個人旅行では行く気にならないだろうからと、申し込んでいた。 河を遡るのは、かつて、セーヌ河を海から遡ったこともあるし、ミシシッピー河をニューオーリンズまで遡ったこともある。 数日後には、バンコックから水上マーケットにも小舟で訪ねる予定になっている。

 

 田園風景の中を真っ直ぐ延びる何号線か知らないが、国道だろう。狭い道路をバイクがひた走る。 渋滞という風景では亡い。バイクラッシュという言い方のほうが上京が判りやすいだろう。砂煙というか、排気ガスというか、辺り一面まき散らしながら、 とにかく、野牛の群れのようにバイクが河となって流れて行く。二人乗りは当たり前、三人、四人乗りのバイクがひしめき合って走っている。道路を横切る人も慣れたもので、 悠々と歩き出すと、バイクは自然に間隔を開けていく。

 

道路端にぽつんぽつんと適当な距離感でフォーを食べさせる店がある。ホンダと書かれた看板が立ててあるところは、どうやら、故障を成してくれる修理屋で、タイヤも売っているし、飲み物も売っている。 ハンモックをずらっと吊してある店は、仮眠場なのだそうだ。 乗用車も定員オーバーのクルマが多い。やたらに多いのがバスだ。狭い道路にバスが追いつ抜かれつしながら、めまぐるしい。正月休みを利用して、帰省する人たちだそうだ。 故郷への土産も持てるだけ持っての大移動なのだ。この時期の中国と同じだ。そして、それだけ、ホーチミンへの出稼ぎ労働者が多いということなのだと観て下さいとガイドが説明してくれた。 だから、今回の我々のバスの確保も予約に苦労したそうだ。

道路標識に大きな文字が見えてきた。ミトー(美都)だ。美しい都市という意味だ。 大きなゲートをくぐった。
メコン川遊覧船の船着き場が出て来た。
ちょっと、インドのコーチンを思い出した。

 

にこやかな顔の男性が飛び出して来た。「ミナサン、ワタシハ、森進一デス」
いきなり、笑いを誘う自己紹介だった。日本人観光客からつけられた、ニックネームだそうだ。客が笑ってくれるので、本人は気に入って使っていると。

 漢字で書くと、武士の「武」、成功の「成」、そして才能の「才」ですと、ここでもまた笑わせた。
 母親に感謝だね、いい名前だからと言ったら、「ハイ、父親ニ感謝、カンシャデス」と返してきた。
 日本語は難しい。3年では足りない。漢字は「音」「訓」、それにカタカナ、ひらがなと3種類もあるから、頭が真っ白になる。ワタシの顔はクロイデスケド、と。 

 年配者の多い、乗船客は笑い転げながら、船に乗り込んだ。
 遊覧船と言うより釣り船のような体裁だ。
 濁っているが、河の流れは速そうだ。所々に、魚の網が仕掛けられている。 それを縫いながら、船は斜めに河を横切っていく。川幅はおよそ、3kmという。

 島と呼ばれる中州がいくつも点在する。そのひとつの島で小舟に乗り換えた。たわわなバナナの木があちこちに植わっている。

 今度は、渡し船のような底の浅い細長い船,タンバンだった。縦一列になって座る。何隻にも分乗した。



いよいよ、狭い水道に入り込んで行く。生活のための小舟が岸にシバリ着けられている中を帰る船と交差する。
 ベトコンの拠点になった場所だと聞かされると、もの悲しい風景に思えてきた。

 幾度もの分水路を進んで、タイソンという島の船着き場に着いた。ここから、しばらく、原住民のように歩く。
熱帯植物の花が鮮やかだ。果樹園の島だそうだ。道の端に、もぎたてと思われるフルーツがテーブルに無造作に置かれ、売り物になっているようだが、売人はいない。のどかなものだ。

 

急に開けた庭に出て来た。奥に何棟も家屋がある。ココナッツが山と積まれてある。 キャラメル工場だ。何人もの女性が、リズミカルに手を動かしている。

 塊掛けているキャラメルを見事な手さばきで、分割し、包装紙にくるんでいる。 男性は、大きな鍋に入った液体をかき回している。 手招きをされて覗くと、徐々にそれが固まっていくのが判る。 目を転じると、ココナッツの削りブリ状態のものを釜で煮ている。

そうか、プロセスを逆に観ていたのだ。

 

一口食べて、と差し出されたキャラメルを試食させて貰う。

養蜂もしていた。蜂蜜を瓶詰めにして売っている。味見を下が、確かに、素直に言って、濃い甘さだった。

衛生面が気がかりだと、ココナッツキャラメルよりも蜂蜜のほうが見る間に売れていった。

 

蛇はいるかと訊くと、昔は多くいたが、いまは、食べてしまい、数は減ったと、こともなげに返された。観たいなら、庭の端っこの檻にいるから、観ていくといいと笑いながら、指さした。 

 

は虫類の大嫌いな僕は、近づくことはなかったが、それでも、村の人は、ニコニコしながら首に巻き付けてこっちにやって来た。大袈裟に手で拒否して、キャラメル工場を離れた。 細長い水路の脇を歩くのだが、どうにも気持ちが悪い。樹木にぶら下がっていやしないかと、早足になった。 別の場所で、ベトナム民族音楽の演奏と踊りが出迎えてくれた。もぎたてのフルーツを出された。さぞや、美味しい過労と思うのだが、カリウムを摂取してはならない腎不全の身では、眺めるだけだった。
広場に待っていてくれた車で、船着き場まで送ってくれるようになっていた。つまり、観光客用に、往きと同じコースで、バス乗り場まで帰る。

 

ラクチュウ大橋を走り、うとうとしかけたときには、ホーチミンの町へ帰り着いていた。 バスから降りると、埠頭には、昨日オーダーした人に、テトで縫い子が少ないのに、アオザイの衣装が時間内に縫われて届いていた。船から走り出して来た人は、注文をした女性だ。 受け取り顔が、浮き浮きしていた。恐らく、インフォーマルで装うのだろう。

レストランは、我々のために昼食時間は延長して待ってくれていた。 ランチは、とろろ蕎麦だった。肉巻き飯も赤だしも要らないが、蕎麦のお代わりが欲しいが、と打診してみた。やはり、にっぽん丸のように、二人前で出してくれた。

11階プールサイドで、セイルアウエイが行われるという。先回のニューイヤークルーズでは、寒くて出来なかったから、我々にとっては、初めての経験である。バンドが演奏し、バーではシャンパンと水割り、それにジュースが振る舞われていた。つまり、船客を上の階に集めて、岸壁にいるツーリストガイド社のみんなに手を振って例を言おうという訳である。しかし、内部で楽しむ音楽が流れていて、岸壁にいる人たちには、なんらメッセージを送っているわけでもない。これは、にっぽん丸のボン・ダンスのほうが、見送りの方々、税関の人たちへのお別れと有り難う、のメッセージが伝わりやすい。相手国への印象は、おそらくにっぽん丸のほうが好感を持たれるのではないかと、気になった。
それにしても、打って変わって、眩しいくらいの日射しと気温になっていた。ようやく、東南アジアにいる気分になれた。三角の笠を被った船客がちらほら。軽くて涼しいんですと満足げに話している。
テーブルから手招きが見えた。菅井夫妻だ。よく観ると、荘輔さんのTシャツが新しい。街に出たと美子さん。彼らは、僕らが早朝からメコン川に出たことを知らされていなくて、XXXで探してしまったという。妻が話していなかったらしく、申し訳なかった。

13時、ぱしふぃっくびーなす号は、船首と船尾をサイゴン川で大きく旋回して入れ替えた。

訪ねることもなかったホー叔父さんの記念館が遠ざかる。メリン広場手前のマンダリンホテルは、これからもレトロな威風堂々の建物でいるだろうが、ヒュンダイのタワービルは、来年には、ホーチミンのシンボルとして同化していることだろう。上海の森ビルのように。
メコン川は、浅瀬で座礁しかねないので、明るいうちに下って外洋に出る。

マングローブの河口は、船客には見飽きたのだろう、プールサイドデッキには誰もいなくなった。
妻は、2 回目の洗髪に出掛けた。僕は、部屋で「ザ・バンク(落ちた巨像)」という 2009年作の洋画を観ることが出来た。国際銀行のIBBCに不審な資金の流れがあると追求するのが、NYの捜査官ルイで、主演はクライヴ・オーウエェン。
今読んでいる文庫本、A・J・クイネルの「パーフェクト・キル」での元傭兵クリーシィに重なる。このシリーズの面白いところは、マルタ島から先のゴッツオ島が拠点になり、今日のサスペンスはイスタンブールが密会の場となる。いずれも、東西の文化の接点がミクシングされるところに怪しげな密約が始まるのか。そういった意味では、アメリカ、フランス、イスラム、日本、ソ連、中国とコンフューズした此処、ホーチミンも強かな街に見えてくるから不思議だ。
僕の腰も、なんだか、固まりだした。椅子に座ってしまうと、腰が伸びないままになる気がして・・・・。筋肉が硬くなっている。それでも歩いたと言える歩数は僅かに4871歩だった。


予約していたマッサージルームに向かった。
マッサージは、「グローバル治療院」からの派遣だった。
母体はリンパマッサージを主とする「グローバルスポーツ」で、アスリート、特にオリンピック選手に同伴していくほどに、施術が充実しているチェーン店で、当時の勤務先から、ブックセンターの裏の八重洲店へは何度も通ったものだ。
「にっぽん丸にも同じグローバルから派遣されていましたね。若い男性の人は、大井町から綱島へ移動したらしいですが・・・」と、名前を忘れてしまったので、話は途絶えた。
今日のメコンツアーは、「宝塚」の山口さんがスタッフだったと話した。なかなかに強いキャラクターを持っている人だが、マイクを持つとシャベリが巧いですね、CA(キャビンアテンダント)出身のように思えましたが、と振ってみると、「あの方は、年齢不詳、経歴不詳なんですの」と、上手く交わされた。
同乗の山本さんも、スタッフ紹介のプレゼンテーションでは、マイクを持つと、余裕があり、間の掴み方も堂々としてましたよと賞めると、実は、京都で学生の時、バスガイドをしたことがあると話してくれた。
私はアオザイが好きで、オーダーして来ましたよと、インフォーマルでの着用を楽しみにしていた。
揉みほぐされて、急に眠くなった。

 

「ライトオペラ&ミュージッククラシック」は、今夜はパスとした。
23時にはベッドに入った。腰を労りながら、そろりと身体を横にした。

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