アジアクルーズ日誌

11日目 ホーチミン

投稿日: 2013年2月20日

20110203 ホーチミン

 

 22時半にはベッドに入っていた。だからか、 真夜中の2時に目覚めてしまった。二度目に起きた時が6時。 早朝尿の塩分検査は6.3。昨日よりも上がってしまったが、この原因はわかっている。おそらく、昼食のカレーだと思う。ルーをすべて食べてしまったからだ。

 7時になっても操舵室の船尾ビデオカメラは、行き交う貨物船の姿を見せてくれるに過ぎない。朝靄なのか、ガスっているのか、水平線は曖昧に朧だ。 まだ河口のほんの前だ。夜に浅瀬の多いメコン川を遡るのは、危険だということからだが、離岸出航する時も、陽のある午後には離岸する。

 早いが、7 時20分、朝食に出る。メコン川の変化する風景を見逃さないためにも早めの朝食がいいとした。既に菅井夫妻はテーブルに着いていた。同じ考えで来ていたという。 体感温度を確かめると共に、船首で河口の景色を撮っておこうとデッキに出た。カメラを持ったご婦人に、スエズ運河は飽きもせず白湯を見ていましたが、パナマは飽きましたと。此処での評価は訊かずじまいになった。

 

 生暖かい気温であるが、キャプテンアナウンスによれば、曇天だが 36℃になるという。 10枚ほどシャッターを切って、部屋に戻る。

 

 船はサイゴン川に入った。旧正月だからか、ベトナムの国旗が川を遡る岸辺にも、小さな小舟にも旗めいている。真っ赤な色が誇らしげに、次々と目に飛び込んでくる。小さな旗なのに活き活きして見えるのはなんだろうか。発展著しい自分の国の自信のように思える。毅然としたホーチミンの背骨を国民が感じ取っているのだろうか。そう思えるのは、船首の先に見える、工事中の何棟もの高層ビル群がそう思わせてくれている。ベトナム最大の商業都市ホーチミン。

 

 客船の埠頭というよりは、貨物船の埠頭であろう。接岸する岸壁には、アオザイを来た若い女性たちが三角帽子を被って、ずらりと並んで待っていてくれた。手の先には風船が何個も泳いでいる。イミグレの奥にはテントが張られ、関係職員の他、土産物屋が開店準備に忙しく立ち回っていた。そういえば、今クルーズ、初めての歓迎セレモニーではないか。中国の3寄港地では見られなかった。船旅が初めての船客は、大いに有り難がったのではないかと思う。 
 音楽が聞こえてきたのは、朝食の時間になっていた。レストランがざわついた。8階のプロムナードデッキにカメラを構えて撮る人、11階のプールサイドに上がった人。 3回も衣装替えをして、男女が踊ってくれた。拍手は起きたが、にっぽん丸との距離より高い。彼女たちは、上を向いて手を振ってくれた。

 

 シャトルバスは、サンタマリア教会へ走った。有名な郵便局の前である。街は、旧正月を迎える飾り付けで華やかだった。大きな天蓋の郵便局は、戦火に見舞われなかったのだろうか。歴史的な建造物である。世界時計もどっしりとして、威厳を感じる。19世紀にフランス当時時代に建てられたという。

 

 左右の狭い土産物店を抜け出して、目抜き通りであるドンコイ通りに入る。オフィスビルは閉じているのだが、そのビルの表玄関には各社猫年のイラストや大型の人形で、思い思いの飾り付けがされていて、その前で、家族が、恋人たちが記念写真を撮りあっている。ディスプレイの中にさりげなく企業名が入っているのだ、誰も気にしていない。気に入った猫なら、その年の記念写真に写り込んでいく。大層な経費をかけても、それが企業の狙いでもあるのだろう。

 

 さすがに、繁華街は正月休みの店が多い。働きに出てきた地方出身者が、一斉に帰郷するから無理もない。日本のお盆休みに近い。船側が交渉して開店して貰っている店があるのだが、通常よりも価格が高く設定されているらしいというのが、下船前の噂だった.

 

 しかし、各店舗がそれほどに器用に値札を変えるわけもなく、そこは半額に値切ることから始まるベトナムらしい交渉術に、尾ひれが付いたに過ぎない話と受け止めた。それを裏付けるのは、街に出て来ている人の数である。欧米人も多いし、一般市民の人出も多かったからだ
米ドルが使えることから、ベトナムの現地通貨ドンには両替しないままに下船した。

 

 スナップを撮り、突き当たりのサイゴン川まで歩いてみた。雑誌で見慣れた、レトロなマジェスティックホテルがあった。玄関の上5階の高さを覆うほどの大きな猫が飾られてあった。 此処で珈琲でもという計画だったが、一緒に歩いていた菅井美子さんが、脚の痛みを訴えて、途中で休んでいるので、メリン広場には向かわず,来た道をまた戻った。

 

 途中、小売店が一つ屋根に集まったショッピングビルに寄った。シルクのスカーフが目に付いたからだった。色の鮮やかさに釣られ、1枚19万ドンのシルクのスカーフを買った。荘輔さんも、草木染めをするための素材として白のスカーフを買った。互いに値引きさせた。先を急いで、休んでいる美子さんの姿を探した。

 

 ベンチに座っていた美子さんを促して、角のカラベルホテルでお茶を飲むことにした。
1階は満席だった。ウエイトレスは、上階を指さした。エレベーターに乗った。最上階で降りた。更にもう1段、階段を上がった。

 

 そこには、オープンテラスのスペースもある、開放的なカフェバーがあった。ベトナム珈琲を妻と頼んだが、菅井夫妻は「サイゴンビール」だった。

 

 1階のティルームは満席だった。ウエイトレスは、笑顔で上階を指さした。二度天井を指した。エレベーターに乗った。最上階まで上がった。降りたフロアーには、「サイゴンビール」のサインが上を示していた。更にもう1段、狭い階段を上がってみた。そこは、オープンテラスもある開放的なカフェバーがあった。窓際のベランダに座った。僕はベトナム珈琲を妻と頼んだが、菅井夫妻は、勿論「サイゴンビール」だった。

吹き抜ける風に頬を撫でられながら、ゆったりとしたひとときを過ごした。此処が、ベトナムだと言うことを忘れるほどに、心地よい雰囲気だった。

 

 

 見下ろすと、東洋のプチパリと言われる佇まいが理解できた。フランス統治下の面影があるからだ。絵葉書のような風景があった。いつかの年賀状になるだろうとシャッターを押した。コンチネンタル・ホテルの先に、尖塔が見える。今日のスタート地点、サイゴン大教会である。

 

 休んだことで、美子さんの脚の痛みも治まったようだ。花祭りをしているグエンフェ通りを歩いてみたいと言いだした。大きな通りは、サッポロのテレビ塔大通りのように、一面が花で彩られ、正月の晴れ姿をしてはしゃぐ家族の姿を見ることが出来た。此処にも、様々な猫のモニュメントがあった。ベトナムの干支で、猫の年なのだ。人民委員会庁舎前には、かのホーチミン像が立っている。ベトナム革命の指揮者であり、初代ベトナム民主共和国主席。

 

 ホーチミンは、儒学者の息子として、論語も読めたが、官吏になる学校でフランス語も学んだ。21歳の時、フランス行きの貨物船の見習いコックとして乗りこみ、パリに入国するも、学校の入学許可が下りず、船員として、アフリカ一周、ニューヨークからボストン、アルゼンチンと南北アメリカを周り、フランスのルアーブルで生活した後にロンドンのホテルの厨房にも勤めた。その後、フランス植民地からベトナム独立という、民族問題にコミットしていく。
第二次大戦まではグエン・アイ・コック(愛国)の変名を使っていた。耳だけで聴くと、“哀哭”という文字も浮かぶ。人民からは、ホー伯父さんと呼ばれている。

『国家の10年を思うなら、木を植えなさい。国家の100年を思うなら、人を育てなさい』
ホーチミンの学んだフエの名門高校、グエン・タッ・タンの校舎には、『賢人は国の源の力』と書かれているという。
耳の痛い言葉だ。日本のいまは、どう答えられるか。

 1975年4月30日。大統領府であったこの建物のフェンスを破った解放軍が30分後、屋上に旗が翻った。「サイゴン解放」と「サイゴン陥落」。オペラ「蝶々夫人」が下敷きだと言われている、ロンドンから始まったあのミュージカル「ミス・サイゴン」を思い出した。

その人民委員会庁舎前からレタントン通りを右に歩き、サイゴン教会前で待つシャトルバスに乗った。
120枚撮ってきた。そして、歩いた歩数も11148だった。腰痛がひどくなった。
行きそびれたペンタイン市場だが、たぶん正月休みで店は閉めているだろう。

船に戻って昼食をした。夜は、再びツアーバスで出るから、休むことにした。
シャワーを浴びて、ポロシャツに着替え、18時には、再び下船した。
「ホーチミンの夕べ」ツアーは、5号から7号車までの三台のバスで出掛けた。
現地の旅行社のガイドは、ハイさんと言った。
「ハイさん!」「ハイ!」バス車内は、どっと笑い声に包まれた。
毎回、これなんだろうなと思った。

 

 水場人形劇の劇場は、華々しいネオンで彩られていた。
郷土芸能らしく、館内の案内人もそれなりの衣装を着て迎えてくれた。
館内は、生け簀のような舞台に、黄土色した水を満たしてある。
仕掛けを隠す効果もあるのだろう。
民間伝承の芸術、元来は、ベトナム北部の畑の溜池に舞台を組んで、民話を伝承してきたものだそうだ。

 

 観客席は、観やすいように勾配のきつい階段教室状になっている。
台湾人の団体と我々日本人で満席になるほどのキャパだった。
観光客がいつも気にするフラッシュ撮影もビデオ撮影も許されているのは、嬉しいのだが、座席の中央に座った大柄な女性の頭が、丁度、舞台の中央に黒いシャドーを作り、思うようにシャッターが押せない。

民話のショートプログラムを数本観ている内に、人形の動きに変化の無いことが判ってきた。幕の裏からの遠隔操作であろう。登場する人物や動物に変化を持たせてあるが、同じ動作の繰り返しである。むしろ、充てセリフと充て歌をする楽士の見事さに感心してしまった。

 

 フィナーレには、人形師が姿を現した。腰までの水位だった。狭いステージで、多人数が小手先のアクション、かなりの運動量である。場内は大きな拍手が長い間、響いた。

夕食は、昼間の花壇と猫の飾りで埋まった交差点の先に見えたレックスホテル。レックス・ロイヤル・コート・レストランだった。

食前にビールか、コーラか水がサービスだというので、ベトナムビール「333」を飲んでみた。古い時代の苦味のついた軽いビールだった。ところが、ここで、日本酒を所望する船客がいたのには驚いた。ベトナム料理店である。困惑したツアコンは、それでも時間をかけて手配したのだろう、何処かから都合をつけてきた。日本酒は何処にでも売っているだろうと、鼻から決めてかかっているのはどうかと思うが、こうなると、ツアコンは、ワンカップでもバスに運び込んでおかないと、貴重な時間を取られてしまう。

料理はというと、レモングラスにつくね状に錬った肉を巻き付けた揚げものと、揚げ餅に鶏肉の照り焼き、それに海老の刻みご飯とフォースタイルの麺碗だった。

 

 中央のステージでは、4人組が伝統楽器で、日本の歌謡曲を奏でてくれていた。入れ替わりに、5人の女性による民族舞踊を舞ってくれて、異国情緒は盛り上がった。
デザートはカットされた西瓜が出た。が、カリウムの多い生の果物は僕は口にできない。お茶はジャスミン茶だった。

夕食を終えて、外に出ると、道路は、煌々と流れるヘッドライトに目を奪われた。
幼児を挟んで親子5人乗りのオートバイが当たり前のように走り去る。洪水のような単車の流れ。500ccなら無免許だそうだ。中学生らしい女性から母親まで、まるで、自転車のような気軽さで、突然、日本の「暴走族」がロケに集められたかのような、凄まじいバイクの轟音とクラションに、我々は、呆然と立って、互いに顔を見合わせていた。そう、「暴走族」を知っている世代ばかりだからだ。一呼吸あって、みんな懐かしそうに、にたりとした。

 

 このツアーは、ナイトコースである。ライトアップされたサイゴン大教会と中央郵便局の夜景を撮れるようにと停車した。
昼間、気になっていたサイゴン最大の高層ビルが判明した。ヒュンダイのビルだった。68階建てだが、未だ建設中なのだそうだ。ライトアップされたユニークなデザインは、見事にシンボリックでホーチミンのランドマークになっていた。光の流れの中を遅々と進まない大渋滞を経験しながら、埠頭に戻った。

 

 帰船は22時になった。今日一日で12115歩だった。
年に一度しか経験できないテトの日に、身を置いたことを忘れないだろう。

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