アジアクルーズ日誌
9日目 ダナン寄港
投稿日: 2012年8月4日
20110201 ダナン
4時半、何も見えず。7時半になって、これまでの海の色とは異なってくる。 海面は、黄土色。淀んでいる。波は、高く大きくゆったりと、揺れている。 工業地帯の廃液のようだ。 接岸が終わった。船首へ歩いてみると、埠頭には、 裁断し終わったサトウキビの搾りカスが山積みされてあった。 その前に、ダナンのコーストガード船。 ここは、ダナン郊外の ソントン半島のティエンサ港である。 港にはタクシーは待機していない。
人口90万人。これがベトナム中部最大の都市ダナンとの初接見となった。 ダナンという都市名を世界に広めたのが米軍による北爆の拠点だ と知る世代が少なくなっている。 ベトナムでは米ドルが使えるので、現地のドンへの両替は船内ではしないという。 チップの習慣もない。 黙々と内に秘めた力が国の成長力になって来たことを歩いて実感したいものだ。 客船が寄港するのが年に何度あるのだろうか、 英文でのウエルカムの文字が薄汚れている。 レセプション用に設えたテントの中に椅子が並べられてはあるものの、 下船の時間になっても誰も座る人は現れなかった。
プレハブの事務所の前には、形ばかりの宝籤売り場のような木箱の中で、 担当者が出国カードに判を捺してくれた。 車輪の付いたゼネレーターの上に載せた荷物検査の透写機と 口輪をはめられた大きな犬が睨みつけていたのが、イミグレの様を成していた。 そのイミグレの外に停めてあった9時30分発のシャトルバスに乗る。 ガイド資料にあった吊り橋、ソンハン橋を渡る。 ハン川のどの漁船にも赤い旗が、ベトナムの旗が立てられていて、 テトを前の風景は壮観である。 走る道筋の建物、みすぼらしい住宅にも、 真っ赤な中に黄色い星のベトナム国旗がはためいている。 「赤は戦果で勝ち取った国民の血」であり、 「星は国民が手を繋いだ形」だそうだが、 ガイド役の男性は、なにも語らない。当たり前の風景なのだろう。 シャトルバスはチュンブン広場に着いた。
この発着場まで30分も要しなかった。 中心地なのだろう、広場にはテントを張ったツアーセンターがあった。 シャトルバスから降りた先に、トライシクルのドライバー?が、 ニヤッと笑らう目が合った。 そこは客待ちしているトライシクルのたまり場になっていた。
大晦日のダナンは姦しい。正月飾りを売る露天商でごった返している。 金銀赤と、実に華やかな歳末戦の真っ只中に放り込まれたのだ。 大晦日だから、何でも許されそうな、ごった煮のような風景が360度。 黄色い植木をバイクに乗せて走り去る姿は、 あたかも、クリスマスツリーを乗用車のボンネットに縛り付けて走る アメリカのようだ。 台湾でも、充分に体験してきたバイクの放列、 けたたましい警笛、荒い運転、戸惑う横断。 これも、人民の逞しい活力。
シベリア帽子を被った老人や、 カーキ色の重そうなオーバー、それに釜のマークが描かれた赤い幟の乱立。 一瞬、ソ連の国かと思わせる。 赤い幟が、正月を前にした商店の門松なんだろうか。 地下足袋の広告、箒を肩に載せた売り子、天秤棒を担いだ老婆、薄い天井、 薄い床材なのに、三階建てのベランダに、 相当な加重が罹ると思われる樹木が何本も植えられて、緑を楽しんでいる生活。
中心地は、ワンブロックが、大きな開発エリアになっているようで 予備知識の無いままにシャトルバスから下車して、その広場から、歩き出す。 まず最初に、1箇所覗いてみたい店がある。 ぱしびのTV番組で紹介していた手差し刺繍の有名店、 「XQダナン・アンド・クラフツセンター」である。 ブンブオン通りにあるという地図を頭に入れて歩いた。 その該当する店があった。ひときわ清潔な画廊風の店だった。 入ろうとしたが、妻も管井夫妻も入ろうとしない。 教えられた場所は違うと言い張る。 しかたがなく、一番の繁華街かと思われるチャンフー大通りを右折してみるが、 やはり、それらしき店は見当たらない。 旧正月を前にして、 花屋がここ一番のかき入れ時とばかりに、 道にまで張り出して、飾り付けの花束を呼びかける。 「ドイモイ」政策が進行し、自由市場経済を導入したことで、 中央集権から脱却、地方自治が認められている。 その活気が漲っているのだ。
小学校の門の中を覗き込んでいると、花屋の女性が、 入ってもいいですよ、どうぞと手で差し示してくれた。 静かな構内に足を踏み入れる。ホットするような優しい気分にさせられた。 外廊下の壁は、イソップ物語や、この国のお伽噺や、 ホー叔父さんのイラストが描かれていた。 『賢人は、国の力の源』というのが、ベトナムの格言にあるそうだ。 日本の教育界、ましてや、大学に入った途端に遊び呆ける 大学生へ聴かせてやりたい。 僕が校内を歩いている間、花屋の女性に妻が、XQの店を訊いている。 彼女は、無案内な我々を心配して、通りの角まで付き添ってきてくれて、 店の看板を指さした。なんと、最初に僕が入ろうとした店だった。 猫の手も借りたいほどに忙しい店を抜けてきてくれた彼女に、 我々は、何度も頭を下げた。ベトナム人の優しさ、親切さを肌で感じた。
XQの店の中は、天井も高く、整然としていた。 外の騒然とした商店街が、エアーカーテンのように遮断されて、 パリ辺りの店に踏み入れたようだった。 入った右手には、刺し子が作業を見せていた。 勤勉さがそうさせるのか、実に細かい。 丁寧にひと針、ひと針、繊細な指遣いが、時間を止めている。 奥には、大きな大作が額に入れられて展示されている。 一番サイズの小さいモノで、日本円で4000円ほどからあった。 裏表のない金魚の刺繍は、AGFの上海ロケで観てもきたが、 この技術はやはり、17世紀に中国から入って来た技術だ。 ここの店は、フエの皇帝に突けた職人の技術を受け継いだといいい、 肖像画と風景が得意とする絵柄だそうだ。
歩を進めるうちに、驚かされる作品が次から次へと目に飛び込んできた。 中国では目にしたこともない、写真かと思わせる 現代的なデッサンスタイルである。 遠目には、全く筆で描いた絵であるが。 よくみると、幾重にも縫い付けられた刺繍糸が見事なまでに 繊細な映像を縫い切っている。 「見まごうことなく」ではなく、見間違ったのだ。 3階に上がると、その刺繍技術を活かして、刺繍した小物が販売されていた。 妻はそれに飛びついた。 文京区のエッセイ教室の受講生の皆さんへの土産にしたいと、10個を買った。
ところが、その紙袋を手に街をぶらついたのがいけなかった。 有名店で買った客だという印になったようで、 観光タクシーのドライバーが、目を輝かせて近づいてきた。 中でも、1人の若いドライバーは、歩いている妻にかなり長い時間貼り付いて、 ショートコースの観光をしないかと粘った。 熱心だった。どうやら、英語が通じるようで、誠実そうな彼の態度に、 妻は断るのを気の毒がった。 僕は、時間が余りにも少ないのだからとして断ったが、彼も抜け目がない。 シャトルバスの時間は知っているから、それまでに戻るよと、頑張る。 確かに、広場のツーリストサービスセンターには、 シャトルバスの発着時刻が明示されているから、 観光客目当てのドライバーもそれを頭に入れていたのだ。 ダナン大聖堂にだけは行っておこうと歩いたが、 この大聖堂の中庭まで付いてきた。 今日は残念だが、自由にさせて欲しいというと、納得して立ち去った。 彼の誠実さは、我々にも充分伝わった。 ベトナムの人の良さが、他国とは違うと言い合った。
大聖堂を我々は裏口から入ってしまっていた。 通り一本を間違えていたのだ。正面から写真を撮り、一回りした。 50名は座れる野ざらしの椅子が並んで、 その先の洞穴にアベマリアの祭壇があった。 暑い日は、此処で礼拝をするのだろうか。いや、夕拝か。
腕時計は、シャトルバスの発車時刻11時30分までに、15分を切った。 妻はダナン駅まで行ってみたいらしかったが、やはり時間が短すぎた。
近くのトイレを訊いた。 向かいのホールの中を利用してくださいということだった。 市民公会堂だろうか、ベトナムの有名な歌手の写真幕が何本も貼られてあった。 ダナン市街は観光地ではないので、雑貨商店だけだ。 ほんの亀戸駅辺りをぶらついただけでは、 ダナン観光?とは言えず、ほんの3ブロック四方を歩いただけだったが、 僕の印象は、懐かしい20年前の台南の町であり、海岸通りの古い上海だった。 大規模な開発工事の塀に描かれていた完成図をみていると、 この街の変貌を、もう、目にすることは出来ないが、 経済的な躍動感を感じた。
「テト」と聞くと、我々は、あの「テト攻勢」を想起する。 旧正月を期して、秘かに蜂起した反抗作戦、やはり、D―DAYというらしい。 作戦会議は、一軒のフォーの店、「フォービン」の2階で行われたという。 そして、当時の店主だった革命闘士、ゴトアイさんは、今も健在のようだ。
昼食のため、帰船したが、レストランに人は少なかった。 それほどに、ツアーバスは繁盛したのだろうか。 ズボンのポケットから落ちたのか、万歩計を何処かへ失ってしまった。 妻のそれは、5038歩を示していた。大して歩いてもいないのだ。 湿気も暑さもあまり意識しなかった。降水確率が95%だと言われていたが、 降られもしなかった。最高気温は18℃、最低が16℃。
メールの確認に行き、珈琲を飲んで部屋に戻ったら、猛烈な眠気が襲ってきた。 横になったら爆睡だったようだ。気がつけば、17時半。窓外は暗くなっていた。 大慌てで、今夜の試みを始める。室内のラーメン屋開店だ。 お湯を注ぐだけで食べられる腎臓病院食。 持ち込んだ1個の丼に創ったそれを入れる。 黒酢と一味唐辛子を加えて食べる。 食べ終わったとき、菅井夫妻がノックした。夕食に出る。 妻の今夜の装いは、グー。 臙脂カラーのイッケイミヤケに、 マコ(次男の嫁)手作りのアクセサリーは、よくフィットしていた。 ラーメン一杯分で満腹感があり、無理してディナーを食べきることもなく、 塩分の高そうな品は余裕度を持って避けることも出来た。 ましてや、今晩は、レストランの入口にベトナムビールが 掻き氷の中にディスプレイされていて、 350円で飲めるのだ。これで充分。
世界遺産ミーソン遺蹟に出掛けた古子夫妻も同席となった。 古子さんは、03、06,08年と、にっぽん丸でご一緒だった。 話してみると、にっぽん丸組は、7組が乗船しているという。 晩酌をしながら、古子さん、曰く、 「昔、98年までは、にっぽん丸での夕食時、 アルコールのすべては、無料でしたよ。 ところが、2000年から有料になってしまいました。 おそらく、飲み過ぎて乱れる方が多かったせいでしょうかねえ」。 そういう時代もあったのだと知った。
レストランを出ると、右手に階段があるのに、 あえて荘輔さんは、螺旋階段側から降りて帰る。 螺旋階段が好きなのだ。 「こちらを通って帰ると、途中の売店で、なにやら買わされそうで、 危ないんですよ」 古子さんが冗談めかして言うと、荘輔さんすかさず返した。 「はっはは、ウチは心配ないよ。彼女の着られるサイズは売ってないからね」 「・・・・」 途中で椅子に座って休む。 オープンバーでいつもの珈琲から、ミルクティに初めて変えてみた。
この頃になって、階下が騒がしくなった。 5階にようやく、遠隔地、古都フエに出掛けていたツアー客が帰船したのだ。 疲れ切った表情が、らせん階段を上がって来た。 床が小刻みに震え始めた。出航だ。21時。やはり、ギリギリで帰港したのだ。
あのベトナム人の花屋の若い女性、親切なあの表情は、忘れない。 なにも求めていない、にこやかなあの顔。 そして、誠実そうな、あのタクシーの青年。 もっと時間にゆとりがあれば、貴方に2時間くらい案内して貰ってもよかった。 少し、せっかちな我々を許してください。もう来られないと思うが。
吊り橋の灯りが遠ざかる。有り難う、ダナン。 怒濤のようにバイクのライトが揺れて迫って来るという 映画のトップシーンのような光景が、まだ目に焼き付いている。
ジムで汗かいてから大風呂に行こうと、部屋を出た。 11階のジムには、誰もいなかった。 振動運動を15分、鞍馬を15分、そしてウオーキングを45分。 11時30分までに、大風呂へ。 スティームサウナでストレッチして、湯舟に浸かるが、 二つに区切られた浴槽のお湯が揺れて、 互いに入れ替わろうと遊んでいるように見える。 身体もじっとしてられなくて、波に揺らされる。 体重計に乗って見るが、笑っちゃう。なかなか計れない。諦めた。 文庫本を読もうと横になるが、疲れている。文字を見るのも嫌になった。 灯りを消して目を閉じた。 明日は、一日中航海日。ゆっくり出来る。
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はじめに
徒然なるままに、書きますが、街で耳にしたこと、眼に入ったこと、などなど、生活を変えるかもしれない小さな兆しを見つけたいと思います。