投稿日: 2013年9月16日
20110205 シャム湾
充分眠ったと思ったが、また1時目覚めた。腰は重い。寝返りが打ちにくいほどだ。籾返しか、それともそれほどに筋肉が硬く張っているためか。二度目に起きたときは7時半。やはり、ベッドから起き上がりにくい。腰が曲がらないのだ。弱った。バンコックで歩けないのではどうしようもない。ボディセラピーへの予約を今日もしてみよう。
今日も塩分摂取量が8gだったとは驚いた。抑制しないことには、帰国後の検診が気になる。シャントをする期日を遅らせたい。昼食は部屋での内食にしておこう。
『8時、船はハイグン岬70kmの沖合いでベトナムからカンボジア沿岸沿いに航行し、明朝6時にはチャオプラヤ川のパイロットステーションに入ります。
天候は曇り。東北西に南下。速度は34km。東南東の風は8m。気温は30℃。』
朝食に出る。菅井夫妻の背中を観る。我々を捜しているようだったので、肩を叩く。4人隻に座る。いつものように、ベーコン抜きのオムレツを頼んでおいて、パンをトースト。飲むヨーグルトとサザンアイランドをかけた野菜サラダ。それに珈琲。
菅井美子さんが、シンガポールのマリナサンズのスカイパーク・ツアーに申し込むと言う。荘輔さんは、高い処はわざわざ行くこともないから、船内でのんびりしているという。さて、我々は、スカイパークへのエレベーターの待ち時間次第だが、地下鉄でマリナサンズに出掛けて、その後、ラッフルズ・ホテル経由で帰船する予定にしているのだが果たしてどうなるか?妻は、映画に登場するラッフルス・ホテルでお茶を飲むのを御所望なのだ。あのモン・サン・ミッシェルを見送ったことで不満の苦言を何年も聴きたくもないし・・・。
マッサージ13時予約できた。案外、空きがあると言うことだ。ホットした。
妻は、運動会を楽しみに出掛けた。「いつも、ウチは、バラバラに出掛けるのね」
そう言い放って、ドアを閉めていった。船内では、各自が自由に時間を使う。これが、これまでの我々の暗黙のルールだったので、どうってことはない。
曇り空だが、波も穏やかだから、運動会は、てっきり、スポーツデッキか、プールサイドだろうと、11階と10階へ上がったが、違っていたのだ。8階のメインホール、つまり、僕らが雨天体操場と称している多目的ホールが「洋上運動会」の会場だった。
9時半前なのに既に、左舷側の赤組、右舷側の白組の席は満席だった。白組に妻と美子さんが座っていた。
入口の端に立ったまま432mmのレンズを向けた。
準備体操としてラジオ体操の曲が流れた。白組の応援団は、機関部スタッフだった。大柄な男共が、曲に会わせて踊り始めた。 スタッフもご苦労様だ。
船客のゲームは何処でもお馴染みの玉入れから始まり、続いてパン食い競走になった。
クルーの各グループ対抗の競走が始まった。
フロント・スタッフ、エンタテナー・スタッフ、ツアースタッフ、機関部スタッフ、甲板部スタッフ、ホテルホールスタッフにバー・スタッフ、キッチン・スタッフなどが仕掛けのある道具を使って、ゴールするというもの。屈強の体力を保持する甲板部やシェフクラスは案外もろく、若いフロント・スタッフとバー・スタッフが健闘した。優勝は、アロハシャツを着たオープンバーの男女だった。
船客からの予想投票箱には、バースタッフの優勝を予想した人は、悲しいかなゼロで、2位のツアー・スタッフに投票した船客4人から抽選で1人が選ばれた。初乗船の人は、固唾を呑んで眼を見張った。
賞品は、にっぽん丸なら10万円相当のクルーズ券というところだが、ぱしびでは、今クルーズのTシャツと赤ワイン1本だった。
再び、借り物競走で、美子さんの番になった。彼女が機関長を連れ出して走り込んできた。ホールは、笑いと叫び声で熱くなってきた。興奮が冷めないままにフォークダンスの曲が流れ、会場に輪ができた時、ホールを背にした。
パソコン・ルームでBKKの石沢君からのメールを確認したが、未だだった。ツアーデスクで、ポートからマリナサンズまでと、そしてラッフルズホテルへの地下鉄経路を訊いてみた。スカイパークへの入場券が幾らなのか、答えられない。即答できる資料を置いてないのだ。分業化された専門スタッフでありながら、甘いと言わざるを得ない。 ひつと先の寄港地までは準備しておいて欲しいものだ。尤も、このクルーズの説明会で、マリーナ・サンズを口にしても、知るスタッフがいなかったことが思い出される。オープン直後だとはいえ、観光サービス業にとっては、トピックスであるのに情報を把握していなかったのだ。ツアーコースに組み込むべきだと提案したのは、この僕だった。
尻のポケットに入れている文庫本をライティングルームに座って読んだ。気がつくと、周りに人が居なくなっていた。そうだ、今日の昼食は弁当だったことを思い出した。各自が取りに行くからだった。僕は、病人食に持ち込んだラーメンを食べようと、自室に帰った。
戻って来た妻も同じことをフロントに問い質しに行ったらしい。スカイパークは1時間は待たされると言われた。料金は教えられなかった。ラッフルズへは、マリナサンズ駅から2回乗換で、シティホール駅が近いようだ。 結局、ツアーバスを予約してきていたという。7612円。2人で1万5224円。キャンセルするなら今夜中だ。
正午になって雨が降りだした。つまり、この不安定な天候を予測して、雨天体操場になっていたのだ。
プノンペン296k沖合いを南西に向けて航行。雨。東の風8m。波の高さ1.5m。バンコクまでの距離5961km。気温、海水温共に29℃。操舵室の窓を叩く雨粒は大きくなっている。
妻は弁当を手に部屋に戻ってきた。プラスティックの二重に入った弁当とペットボトルのお茶が付いていた。
腎臓病人用のラーメンを食べ終えて僕は、11階のマッサージ・ルームに上がる。
山本さんに30分を頼んだ。エンヤのDVDも流されていて、ここにはゆったりとした時間が流れている。腰の張り、大腿部の張りは昨夜ほどではないが、といいながらも、僕には、やはり痛痒い快感がある。施術を受けながら、山本さんに訊いた。自分の筋肉痛はどうするのかと。すると、筋肉痛に効く薬を使っている、これが日本では販売されていないのよと、これからの寄港地で買い占めておくのと言う。足が攣った時に擦り込むと効くから、貴方も買ってきたらと勧められた。
「ネック&ショルダー」と言えば、5000円くらいだが何処のドラッグストアーにもあるとのこと。 タイガーバームから出ていると言う。プロの薦める塗薬だから、買うに限ると、メモする。
テトのホーチミンで、ひったくりに数人が遭ったというニュースまで教えられた。ツアースタッフまでが、被害に遭ったようだ。あの黒山の人だかり、喧噪の中、日本人の老夫婦たちは、格好の餌食と言わざるを得ない。しかも、ひったくったらバイクで逃走してしまうので、追う手立てもない。イスラムには、富む者は貧しい者に施さねばならないという教えがあるそうだ。地方から働きに来ている者にしてみれば、帰省するのに土産物も買いたいし、金も要るだろう。日本人の高齢者クルーズ観光客は、 餌食が歩いているような集団として目に映ったことだろうし、見逃さなかったのだろう。
毎回、下船すると、それが気になっていた。
バンコックの2日間は、ツアーバスではなく、自由行動で歩き回るから、また腰痛で駆け込むかもと笑いながら、熱いハーブティを頂いて帰った。
妻は入れ替わりに、タイ入国のオリエンに8階のメインホールへ出掛けた。
僕は、昨日書き残した航海日記の続きを書いてから、横になった。
電話で起こされた。ツアーデスクからだった。
「地下鉄はまだ工事中でして、マリナベイサンズ駅は歩ける距離ではありませんでした」
「???」
同じ階のツアーデスクに出掛けると、担当は「このエリアは、まだ開発工事途中でして・・・」
つい最近開発されたことも、ベガスの資本が入ったことも知っている。オープニングセレモニーも見ていたのだから。それだから、今回のチャンスにと思ったら、はしびのツアー東京會舘での説明会では、それが組み込まれていなかった。
説明会の後、担当者にこう言った。「ツアーを組んだら、参加する人も多くなるはずですよ、リピーターには特に」。
タクシーでどれほどの距離でしょうかと訊いたら、その担当者は即座に地下鉄が出ていますから、行けますよ。私も乗船しますから、船内でまたお訊ね下さいと、にこやかに答えてくれた。そして、ラッフルズ・ホテルへも地下鉄で行けますからと添えてくれた。
・ ・・・それが、ツアーデスクでは、「地下鉄の駅は、まだ出来上がっていないのです。最寄りの駅からは、歩ける距離ではないですね」とまで。そうだろうか?デベロッパーは、観光客誘致を念頭にしてインフラを整備しなかったとは思えないのだが・・・。
地下鉄の路線図を見せられた。ポートベイ駅からタクシーならダイレクトで15分くらいの距離だが、地下鉄だと、ポンゴウル行ホームから乗って、ドフェリン・グランツ駅で下車、南北線に乗換え、マリナベイ駅終点まで戻って行くことになる。ラッフルズ・ホテルへは南北線ジュロベル・イースト駅行でいいのだが、此処もラッフルズまでが歩くという。
ネットで調べてこなかったことが、我々のミスと言えばミス。書き込みだしたら、担当が、コピーは有料ですが致しましょうかと訊ねた。客も居なかったので、そのまま書き写した。
マリナベイサンズの入場料は、このガイドブックに記されていますか?
「いえ、一番新しいガイドブックですが、まだ記載されていません」
「・・・・・20ドルです」
下を向いて答えている。もう少し、詳しく訊いてみたくなった。
「ニューヨークのように、エキスプレス・フィーは設定されていますか?」
「無いようです」ようやくに、目線を落としていたモノをテーブルに出した。
ネットで調べた数枚のマリナベイサンズの情報だった。
「最寄りの駅は?」
「書いてありません」
そんなはずはなかろうと思いながら、新しく敷設された地下鉄経路を書き写す。
「ああ、ニューヨークと言ったのは、エンパイヤ-ステイトビルでの急行券のことでしたが、
言葉足らずでごめんなさい。だとすると、ツアーに参加しないで出掛けると、移動時間で足りなくなるのですね。参加したほうが良さそうですね」
「はい、既に、このスカイパーク・ツアーバスは、好評でして、キャンセル待ちになっています」
「良かった、ツアーに申し込んであります。キャンセルするなら今晩中だと聞いていましたから、万が一を考えて、妻に予約させておいたのです。538号室です」
「あ、確かに、予約されていますね」
「このツアーコースを作ったらと、世明解の会場で提案したのは実は、私で、言い出しっぺですから、宜しく。話は変わりますが、バンコックでのシャトルバスの第一便の発車時刻だけでも判りませんか?」
奥に入って調べてくれた。「10時です」
「有り難う、伊勢丹前で待ち合わせる友人に、時間を早くメールしてやりたいので、助かりました。
忙しいのに、長々と時間を割いて貰って、どうも有り難う」
6階に上がり、パソコンルームで、石沢君へ、伊勢丹到着時刻と、両替の件、それに船内案内後の帰路のタクシーの件を伝えた。
5階に降りると、妻がツアーデスクに立っていた。僕が電話で呼ばれたことを知らないので、終わったと言ったが、彼女は、チャオプラヤ添いのオリエンタルホテルの地図が欲しいと頼んであるので、と。
シャングリラホテルで待ち合わせて、中華街のフカヒレ屋台に行ったから、今回もそれの用意にと頼んだようだった。
しかし、石沢君から来たメールでは、日曜日のレンタカーでは中華街の駐車が難しいし、タクシーさえ断られてしまうほどに混むのだそうだ。そういえば、奥野君と行った時は、駅から歩いて入った。このため、菅井夫妻との中華街は、MKのタイスキに変更することにする。
19時、夕食は洋食だ。ラーメンを食べずにメニューから選べるか、見てからにした。
菅井夫妻が白ワインをボトルで取ろうという。僕も一杯だけを飲む。牛肉フィレは食べて、トマトスープは半分で止めた。明日の早朝尿検査が楽しみだ。
今夜のテーブル話は、病気やら死に流れる話題を何度も切り替えた。ホーチミンでのセイルアウエイに、違和感を持つと言い出したのは、荘輔さん。やはり、にっぽん丸組はそう思ったのかと同感。波止場で手を振る人たちに失礼だよ、8階のプロムナードデッキで見送ってから、ご苦労さんで、11階で遠ざかる街を背にバンド演奏を聴きながら飲み物を飲むなり、歓談するなら解るが・・・・と。
再び、話はまた健康問題に戻った。夫婦のどちらが先に逝くかという話で、荘輔さんがウチは俺が残るようだと言いだしたら、美子さんが、機関銃のように荘輔さんを撃ち始めた。「あんた、洗濯機使えないでしょ?ご飯炊けるの?」
ぱしびの洗濯室は、にっぽん丸のように男女別になっていない。これ幸いに、船内で電気洗濯機の使い方を教えたらと、僕。教えましょうかと、美子さん。たじたじになって、大笑い。このテーブルは、どうも、ワインを飲み過ぎたようだ。
プロムナードのオープンバーでは、荘輔さんがブランデーを頼んだ。各種取り揃えているとメニューにはあったが、ウエイトレスが、戸惑った。ウエイトレスがまだ慣れていないのか、先輩を連れてきた。
結局、ブランデーアレキサンダーというものを頼むことになった。来たのは、ブランデーをベースにしたカクテルだった。戸惑ってしまった彼女、ポーラを、荘輔さんと一緒に記念写真を撮ろうよと、その場を和ませる。荘輔さん、ご機嫌。
20時になった。同じ階のメインラウンジで、「飯田料理長の美味しい話」が聴ける。
料理長は、若い頃、カナダの日本大使館で料理長をしていたという。
今回は、ホーチミンに31日に空路で乗船したそうで、シンガポールまで滞在するそうだ。
ホーチミンには、日本料理店が3000店もあるそうだ。3万人の日本人がいて、1万人の定住者が日本人会に登録されているらしい。
朝7時半には出勤するが、それは、航行中のコースで、各国のシップチャンバーからの情報を判断するためで、客船の食材は、世界基準があるのだそうだ。世界一周クルーズともなると、そのシップチェンバーへの手配が重要になるとして、2週間単位でその国独特の新鮮な食材を補給することが、楽しみでもある。質し、ブラジルは、世界の客船同士で経験する港だという。初日にコンテナーの半分が無くなり、2日目には、コンテナーだけ、3日目にはすべてが消えるので、要注意の港で、アマゾンを遡った日本の某船は、困ったそうだ。また、豪州は、他国の食材を輸入しない国なので、今回のような洪水に見舞われると、NZとの協定品以外は、希望の食材が不足する。ケープタウンを回るコースに変更になると、大西洋を北上するアフリカ沿岸ではシップチェンバーが見当たらないので、悩むそうだ。
これを聞くと、客船のコース企画は、地安やガイド不足の要件以上に、食材補給が最優先になることが判った。客船には、-45℃までの冷凍室を完備しているものの、3週間無補給はしないもの。手当てできない特殊な日本食材は、事前にコンテナ船で先行して寄港地に搬入して置くが、今回のような、1ヶ月間のしかもアジアクルーズは、食材の宝庫であるから、皆さんは美味しい食事を楽しんで下さい。今回もホーチミン、バンコク、そしてシンガポールで補給します。
時間が足りないが、今晩は、日本での西洋料理を話したいと切り出した。
西洋料理の発祥は、神戸や函館など諸説あるが、出島の草野丈吉から端を発しているという。グラバー邸に西洋料理の発祥碑がある。
「ドリアン」という料理は、横浜グランドホテルの総料理長が考案したもので、関東大震災時に、米飯の上にクリームを載せることを考え出したジャパニーズ洋食であり、「カレー」は東郷平八郎がイギリス海軍時代に美味いと思ったビーフシチューにヒントを得て、海軍兵が脚気に冒されないように、野菜を多く摂り入れたのだという。新鮮な野菜は難しいが、古くなっても煮込んだ玉葱や馬鈴薯を多く摂れることから採用したという。
もっと多くの面白い話もあります。料理教室も開く予定です。シンガポールまでの間に、見かけたらご質問下されば、お答えいたします、と飯田料理長は締めた。
まだ、石沢君からのメールは、届いていなかった。
一旦、部屋に戻って、航海日記を打ち込む。
ぱしびは、エンターテイメントスタッフと洗濯室が一緒なのね、ジャグジーで履いていた海水パンツも投げ込んでいたわよ、と妻が、少し不満を漏らした。
そういえば、にっぽん丸では、船客の使用するランドリーは使っていなかった。オープンデッキのジャグジーを専ら使っているのも、エンターティナ-のメンバーだ。それはいいとしても、デッキチェアを使われると、高齢の船客などは、に三脚空けて座るほどで、傍から見ていると、傍若無人に思えてしまう。
外国船と異なる、違和感のある風景ではある。
徐々に更に、にっぽん丸の良さも判ってきた。
石沢君からメール受諾したので、以下のように決めた。
10時発のシャトルバスで、伊勢丹前に着、1階のジムトンプソンの店で待ち合わせ。サンダルの買い物は、伊勢丹から10分先にオープンした「サイアム・パラゴン」で。「エンポリアム」と同系列だそうだ。
ウイークエンドマーケットの最寄り駅は、BTS(スカイ・トレイン)のモチット駅。地下鉄なら、チャトウチャク駅ということだ。
駅名を早速に、セラピストの山本さんにメモで渡しておいた。
フロントに電話した。埠頭位置情報は、現地旅行社の倉本さんから知らせてくれるという確認をフロントの岩田さんから取れた。
カテゴリ:アジアクルーズ日誌
投稿日: 2013年9月2日
20110204 ホーチミン2
朝とはいえない未だ深夜の 1時半、目覚める。次ぎに 3時半また目覚める。そして 5時半。妻が化粧を始めていた。 僕も起きて洗顔する。朝食は、 6時丁度に5 階から 7階へ上がった。
クルーズ初めての早起きとなった朝食だ。
下船してツアーバスに入ったのが、 20分前。バスの中は、充分過ぎるほどに冷房が効かせてあった。ナイロンのジャンパーを着込む。隣のバスに、可児さんの姿を見た。
7時になっても、我々のバス5号車は発車しない。誰かが出遅れたか、取りやめた。 7時5 分、バスは 21名を乗せて高速に向かって走り出した。本日は 3台が併走。
同乗ツアークルーは、「ぱしびの宝塚」と自他共に許す山口ナオ子さん。マイクを握ると、淀みのないシャベリでツアーの行程を説明しだした。 トイレ休憩は 1時間半を経過した辺りだとのことに、後ろの座席から安堵の息が漏れる。 サイゴンツーリストのガイドは昨夜と同じハイさん。
昨夜のネオン煌めく街は静まり返っている。この理由が、しばらくすると判明した。夜にも増してのバイクの大洪水。 何かの撮影かとカメラカーを探して、振り返りたくなるほどだ。大人 3人は違反で、大人2人と子供3人の5人は容認されているというが、横幅 30cmしか空けないままに、スピードを上げて走る。 ヘルメットに、防塵マスクという姿だ。幼すぎる幼児は母親が横抱きにして後ろに乗っている。バランスは、両脚大腿部でバイクを挟んでいるのだ。 驚く筋力、凄い勇気。目を見張る。ひと組でも二組でもない。多くがそうなのだ。
そのイナゴの大群のようなそれに加えて、中型のヒュンダイのワゴン車が、追いつ抜かれつ、追撃ゲームでもしているかのように走っている。 ハイさんが、笑いながら理由を説明した。
元旦が終わって、これから、故郷へ帰る集団なのです。お爺ちゃん婆ちゃん待ってる、年に 1度、みんな集まる。 ホーチミンに働きに来ている大半は、田舎から出てきてる。だから、バイクで帰る。荷物は、もう前に送ってある。だから、身体一つで走っている。 しかも、今年のテトは、比較的休みが長い 1週間なのだそうで、この大移動が起きている。
高速道路に入るとさすがに、バイク集団はいなかった。速度を増す。この道路は日本の技術に依るところ大だそうだ。乗り合いバスやワゴンは、座席が満員だ。 我々の観光バスの座席に余裕がありすぎるのが、申し訳ない気持ちにさせられる。
そういえば、妻が出掛けたアモイのツアーバスは、大型ではなく、サスペンションが硬く、かなり疲労感があったという。理由は、春節で帰省する中国人のために、多くの大型バスが貸し切られてしまったそうだ。
ベトナムに日本のヤマトが入って来たら、この季節の大移動は、一大ビジネスチャンスになる。但し、年に一回のチャンスから、その体験が慣れていけばだが、そのための経済基盤如何に依る。
ホーチミンの人口800万人に対してバイクは800万台だとも、人口の 10%が所有しているとか、数字の把握は曖昧な説明だった。 特にホーチミン市での需要は、通勤ビジネスの足であるから、買わざるを得ない。そして、その70%は、ホンダだそうだ。中国製のバイクも一時期購入されたが、故障が不評で次第に販売力を失っていったようだ。
確かに、これだけ必要品であるからには、頑強で故障の少ない耐久力のあるバイクでありたいのは、よく解る。
ホンダの一般的クラスで15万円、高級クラスでは、 70万円という価格帯だ。
免許は18歳から取得できるが、50ccなら無免許でも乗れる。このベトナムから、世界的なオートバイレーサーが出ても不思議ではない。 なぜなら、幼児の頃から、あのスピード感覚に身体が慣らされている。それも、毎日に近い頻度数で、動体視力も鍛えられているからだ。ガソリンは、リッター 70円である。
都市での生活は、一流のビジネスマンは 5万円の月収を得るが、一般的には8000円ほどで、部屋代、電気代、食費などを含め、今では 1万円以上かかるほどに、苦しくなってしまった。
道路標識は、昔は漢字だったが、今はフランス統治以降、横文字になったそうだ。 自分たちも、名前は漢字で持っていますと、ハイさん。「海」と書く。日本語教師の免許を持つ妻が、すかさずこう言った。 「そうよ、中国から伝わってきた当時も、ハイと発音されていたのに、日本人の受け止め方は、カイと聞こえたのよ、聞き違えて」。
ホーチミンには、中華街があるが、中国人は 6万人が住んでいる。 因みに、中国語は四音だが、ベトナム語の声音は六音なので、有り難うを意味する「カムオン」も、発音が違えば、 乞食言葉で、「なにか恵んで下さいよ」という憐れな意味に変わるから、チュウイが要ると笑わせた。日本語と同じベトナム語があるという。 「注意」は、「チュウイ」、「治安」は「チアン」なのだそうだ。バスの中では、感心する声が出る。ハノイが標準語となるのだそうだ。中部地方の食べ物は辛く、南部は野菜が中心で食べやすい。
今、走っている地域は、 90%が農業で、米はタイに次いでメコンが 2番目にあるという。 ハノイより北は寒く、春夏秋冬の変化があるが、南部は平均気温が25~27℃で、 5月から7 月までが雨季で、後は乾期だ。このため、米は「三毛作」が可能だというから驚きだ。
刈り取った畑と深い緑の稲田が交互に続く。その中に、ぽつんぽつんと白い小さな石がある。石だと思ったら、墓地だった。 その畑の地主が亡くなった時は、農業に就いて他界したのだからと、土葬にして墓を造るのだそうだ。夫婦、親兄弟、一人一人が一つの墓だそうで、そういえば、いくつもそれのある畑が見られる。 桃色の墓、屋根のある墓。おおきい墓。それらは、裕福かどうかで決まる。 高速道路が走ったことで、夜間走行のライトの光が稲の生育に問題があることが判り、売って土地成金になる農家、稲に変わってバナナを植える農家、アヒルの養殖?と転身する農家が出てきたそうだ。
今日のメコン川遊覧ツアーは 一人5829円。網の目のような州に船が入り込んでいくというのは、個人旅行では行く気にならないだろうからと、申し込んでいた。 河を遡るのは、かつて、セーヌ河を海から遡ったこともあるし、ミシシッピー河をニューオーリンズまで遡ったこともある。 数日後には、バンコックから水上マーケットにも小舟で訪ねる予定になっている。
田園風景の中を真っ直ぐ延びる何号線か知らないが、国道だろう。狭い道路をバイクがひた走る。 渋滞という風景では亡い。バイクラッシュという言い方のほうが上京が判りやすいだろう。砂煙というか、排気ガスというか、辺り一面まき散らしながら、 とにかく、野牛の群れのようにバイクが河となって流れて行く。二人乗りは当たり前、三人、四人乗りのバイクがひしめき合って走っている。道路を横切る人も慣れたもので、 悠々と歩き出すと、バイクは自然に間隔を開けていく。
道路端にぽつんぽつんと適当な距離感でフォーを食べさせる店がある。ホンダと書かれた看板が立ててあるところは、どうやら、故障を成してくれる修理屋で、タイヤも売っているし、飲み物も売っている。 ハンモックをずらっと吊してある店は、仮眠場なのだそうだ。 乗用車も定員オーバーのクルマが多い。やたらに多いのがバスだ。狭い道路にバスが追いつ抜かれつしながら、めまぐるしい。正月休みを利用して、帰省する人たちだそうだ。 故郷への土産も持てるだけ持っての大移動なのだ。この時期の中国と同じだ。そして、それだけ、ホーチミンへの出稼ぎ労働者が多いということなのだと観て下さいとガイドが説明してくれた。 だから、今回の我々のバスの確保も予約に苦労したそうだ。
道路標識に大きな文字が見えてきた。ミトー(美都)だ。美しい都市という意味だ。 大きなゲートをくぐった。
メコン川遊覧船の船着き場が出て来た。
ちょっと、インドのコーチンを思い出した。
にこやかな顔の男性が飛び出して来た。「ミナサン、ワタシハ、森進一デス」
いきなり、笑いを誘う自己紹介だった。日本人観光客からつけられた、ニックネームだそうだ。客が笑ってくれるので、本人は気に入って使っていると。
漢字で書くと、武士の「武」、成功の「成」、そして才能の「才」ですと、ここでもまた笑わせた。
母親に感謝だね、いい名前だからと言ったら、「ハイ、父親ニ感謝、カンシャデス」と返してきた。
日本語は難しい。3年では足りない。漢字は「音」「訓」、それにカタカナ、ひらがなと3種類もあるから、頭が真っ白になる。ワタシの顔はクロイデスケド、と。
年配者の多い、乗船客は笑い転げながら、船に乗り込んだ。
遊覧船と言うより釣り船のような体裁だ。
濁っているが、河の流れは速そうだ。所々に、魚の網が仕掛けられている。 それを縫いながら、船は斜めに河を横切っていく。川幅はおよそ、3kmという。
島と呼ばれる中州がいくつも点在する。そのひとつの島で小舟に乗り換えた。たわわなバナナの木があちこちに植わっている。
今度は、渡し船のような底の浅い細長い船,タンバンだった。縦一列になって座る。何隻にも分乗した。
いよいよ、狭い水道に入り込んで行く。生活のための小舟が岸にシバリ着けられている中を帰る船と交差する。
ベトコンの拠点になった場所だと聞かされると、もの悲しい風景に思えてきた。
幾度もの分水路を進んで、タイソンという島の船着き場に着いた。ここから、しばらく、原住民のように歩く。
熱帯植物の花が鮮やかだ。果樹園の島だそうだ。道の端に、もぎたてと思われるフルーツがテーブルに無造作に置かれ、売り物になっているようだが、売人はいない。のどかなものだ。
急に開けた庭に出て来た。奥に何棟も家屋がある。ココナッツが山と積まれてある。 キャラメル工場だ。何人もの女性が、リズミカルに手を動かしている。
塊掛けているキャラメルを見事な手さばきで、分割し、包装紙にくるんでいる。 男性は、大きな鍋に入った液体をかき回している。 手招きをされて覗くと、徐々にそれが固まっていくのが判る。 目を転じると、ココナッツの削りブリ状態のものを釜で煮ている。
そうか、プロセスを逆に観ていたのだ。
一口食べて、と差し出されたキャラメルを試食させて貰う。
養蜂もしていた。蜂蜜を瓶詰めにして売っている。味見を下が、確かに、素直に言って、濃い甘さだった。
衛生面が気がかりだと、ココナッツキャラメルよりも蜂蜜のほうが見る間に売れていった。
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蛇はいるかと訊くと、昔は多くいたが、いまは、食べてしまい、数は減ったと、こともなげに返された。観たいなら、庭の端っこの檻にいるから、観ていくといいと笑いながら、指さした。
は虫類の大嫌いな僕は、近づくことはなかったが、それでも、村の人は、ニコニコしながら首に巻き付けてこっちにやって来た。大袈裟に手で拒否して、キャラメル工場を離れた。 細長い水路の脇を歩くのだが、どうにも気持ちが悪い。樹木にぶら下がっていやしないかと、早足になった。 別の場所で、ベトナム民族音楽の演奏と踊りが出迎えてくれた。もぎたてのフルーツを出された。さぞや、美味しい過労と思うのだが、カリウムを摂取してはならない腎不全の身では、眺めるだけだった。
広場に待っていてくれた車で、船着き場まで送ってくれるようになっていた。つまり、観光客用に、往きと同じコースで、バス乗り場まで帰る。
ラクチュウ大橋を走り、うとうとしかけたときには、ホーチミンの町へ帰り着いていた。 バスから降りると、埠頭には、昨日オーダーした人に、テトで縫い子が少ないのに、アオザイの衣装が時間内に縫われて届いていた。船から走り出して来た人は、注文をした女性だ。 受け取り顔が、浮き浮きしていた。恐らく、インフォーマルで装うのだろう。
レストランは、我々のために昼食時間は延長して待ってくれていた。 ランチは、とろろ蕎麦だった。肉巻き飯も赤だしも要らないが、蕎麦のお代わりが欲しいが、と打診してみた。やはり、にっぽん丸のように、二人前で出してくれた。
11階プールサイドで、セイルアウエイが行われるという。先回のニューイヤークルーズでは、寒くて出来なかったから、我々にとっては、初めての経験である。バンドが演奏し、バーではシャンパンと水割り、それにジュースが振る舞われていた。つまり、船客を上の階に集めて、岸壁にいるツーリストガイド社のみんなに手を振って例を言おうという訳である。しかし、内部で楽しむ音楽が流れていて、岸壁にいる人たちには、なんらメッセージを送っているわけでもない。これは、にっぽん丸のボン・ダンスのほうが、見送りの方々、税関の人たちへのお別れと有り難う、のメッセージが伝わりやすい。相手国への印象は、おそらくにっぽん丸のほうが好感を持たれるのではないかと、気になった。
それにしても、打って変わって、眩しいくらいの日射しと気温になっていた。ようやく、東南アジアにいる気分になれた。三角の笠を被った船客がちらほら。軽くて涼しいんですと満足げに話している。
テーブルから手招きが見えた。菅井夫妻だ。よく観ると、荘輔さんのTシャツが新しい。街に出たと美子さん。彼らは、僕らが早朝からメコン川に出たことを知らされていなくて、XXXで探してしまったという。妻が話していなかったらしく、申し訳なかった。
13時、ぱしふぃっくびーなす号は、船首と船尾をサイゴン川で大きく旋回して入れ替えた。
訪ねることもなかったホー叔父さんの記念館が遠ざかる。メリン広場手前のマンダリンホテルは、これからもレトロな威風堂々の建物でいるだろうが、ヒュンダイのタワービルは、来年には、ホーチミンのシンボルとして同化していることだろう。上海の森ビルのように。
メコン川は、浅瀬で座礁しかねないので、明るいうちに下って外洋に出る。
マングローブの河口は、船客には見飽きたのだろう、プールサイドデッキには誰もいなくなった。
妻は、2 回目の洗髪に出掛けた。僕は、部屋で「ザ・バンク(落ちた巨像)」という 2009年作の洋画を観ることが出来た。国際銀行のIBBCに不審な資金の流れがあると追求するのが、NYの捜査官ルイで、主演はクライヴ・オーウエェン。
今読んでいる文庫本、A・J・クイネルの「パーフェクト・キル」での元傭兵クリーシィに重なる。このシリーズの面白いところは、マルタ島から先のゴッツオ島が拠点になり、今日のサスペンスはイスタンブールが密会の場となる。いずれも、東西の文化の接点がミクシングされるところに怪しげな密約が始まるのか。そういった意味では、アメリカ、フランス、イスラム、日本、ソ連、中国とコンフューズした此処、ホーチミンも強かな街に見えてくるから不思議だ。
僕の腰も、なんだか、固まりだした。椅子に座ってしまうと、腰が伸びないままになる気がして・・・・。筋肉が硬くなっている。それでも歩いたと言える歩数は僅かに4871歩だった。
予約していたマッサージルームに向かった。
マッサージは、「グローバル治療院」からの派遣だった。
母体はリンパマッサージを主とする「グローバルスポーツ」で、アスリート、特にオリンピック選手に同伴していくほどに、施術が充実しているチェーン店で、当時の勤務先から、ブックセンターの裏の八重洲店へは何度も通ったものだ。
「にっぽん丸にも同じグローバルから派遣されていましたね。若い男性の人は、大井町から綱島へ移動したらしいですが・・・」と、名前を忘れてしまったので、話は途絶えた。
今日のメコンツアーは、「宝塚」の山口さんがスタッフだったと話した。なかなかに強いキャラクターを持っている人だが、マイクを持つとシャベリが巧いですね、CA(キャビンアテンダント)出身のように思えましたが、と振ってみると、「あの方は、年齢不詳、経歴不詳なんですの」と、上手く交わされた。
同乗の山本さんも、スタッフ紹介のプレゼンテーションでは、マイクを持つと、余裕があり、間の掴み方も堂々としてましたよと賞めると、実は、京都で学生の時、バスガイドをしたことがあると話してくれた。
私はアオザイが好きで、オーダーして来ましたよと、インフォーマルでの着用を楽しみにしていた。
揉みほぐされて、急に眠くなった。
「ライトオペラ&ミュージッククラシック」は、今夜はパスとした。
23時にはベッドに入った。腰を労りながら、そろりと身体を横にした。
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