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「アジアクルーズ日誌」の一覧
20110212 ジャワ海
投稿日: 2019年11月22日
20110212 ジャワ海 奇妙な夢を見た。
定年当日、最後の出勤に会社に出た朝の夢だった。自分だけが、亡霊のように、相手の視界に入っていないのだ。呼びかけても、声が出ていない。知っている顔に遭わなかったのだ。
静かな洋上だ。微動谷揺れない。エスカレーターにでも乗っているような静止状態が続いている。そう、いつかのインド洋に入ったようだ。近隣の島々に囲まれているためか、船が停止しているように思える。
朝7時。2日目を迎える航海日、身体は休養を得たようだ。昨夜、シャワーの後に、塗りたくった「ネック&ショルダー」のお陰か、脚の筋肉の張りも和らいだ。
しかし、ぱしびに乗船して以来、困ったことが続いている。塩分摂取量は、昼食を抜いたり、夕食のみそ汁、漬け物、味噌和え、味噌焼き等々を外したりして、充分注意しても、平均6.8である。
妻が横から言った。 「今日は、昼食も内食にしてね、夕食も和食なら、そうしてほしいわ。クルーズに乗って、東京に居たときよりも、悪くなるなら意味ないじゃあない」。確かにそうだが、今クルーズは、妻のためでもあるのだから、心配させてはいけないのだ。
朝食は、8時になってから出た。 今航海、初めて、シリアルをパン替わりに食べる。オムレツは溶き卵の中に既に調味料として食塩が入っているようだった。目玉焼きも、そういう意味では、慣性で、食塩を振りかけている。今朝は食塩を振らないでと頼もう。
「オムレツは、どうしますか?」エルビンが訊いてくれた。
「シオ、ナシで、サニーサイド」。
食後の珈琲は、今回最悪の焦げ臭い苦さ。 ヘッドウエイターには、もう何も言うまい。
「当船には、コーヒー・バリスターが乗っています。気温や水が変わりますので、それに合わせて常時調整致しておりますので・・・」
こう繰り返すに違いない。しかし、どうも納得できない。いかなる気候であろうと、寄港地の水であろうと、日本出港時のあの美味い珈琲を維持、堅持させるのが、コーヒー・バリスターの力量ではないか。水や温度で味が変わるのであれば、素人でも淹れられる。
9時からは、8階のメインホールで、インドネシア・入国オリエンが行われた。2/15の14時から、全員による消火訓練が予定されているという。これは、08年の世界一周クルーズでもにっぽん丸は実施していなかったことだと思う。
9時50分、全防火扉の閉鎖点検のブザーが鳴り響いた。そう、インド洋を過ぎた後の、イエメン海賊対策の時のように、このエリアもスリランカ以東の海域は、海賊の出没する場所だったのではなかろうか。 パソコンを持ち出してライティングルームに向かった。
残念なことに、机は三席とも埋まっていた。仕方がないからと、ピアノラウンジの窓際に座って打ち出した。
暫くして、ウノの時間が来たようで、席を立って、同じ7階のラウンジへ移動していってくれた。
こちらも、講義の時間が迫っていた。ジャイカの鈴木孜さんが講師。「インドネシアの自然と人々」5回のシリーズの初日である。
ドイツの林学というのは、「1本の木が生長する。その成長して伸びた分だけを伐る。そして、またその成長を待つ。丁度、元本を損なわずに、利率を楽しむ。恒(久持)続林思想というものだ」そうだ。
インドネシアの国土は、スマトラからパプアまで、海洋面積を含めると日本の5倍もある。米国の東海岸から西海岸までの幅だと言われるとあらためて驚かされる。
衛星写真で数えたら、17000ではなく、18110島だったという数字が出ている。3000の民族で250の言語、そして人口は世界第4位の2億3000万人もいる。宗教庁や宗教警察もあるほどに宗教問題が多発する国だが、人口の76%は、イスラム教徒で、ラマダンの時期には、マクドナルドの店などは気遣って、窓硝子にも目隠しをするそうだ。 インドから稲作が伝わり、それに伴いイスラム教徒が増え、そして、宣教師がキリスト教を普及させたが、元々ヒンズー教のジャワ人はバリ島へ動いた。
自分が赴任したのは、生物多様性保全協力の企画調査員としてインドシナ政府の林業部門、生物多様性部門を診るためだった。此処には、海の公園と山の公園がある。国立公園の管理は、米国のイエローストーンのように、底地は国有地で守られているのが基本なのだが、日本は住民に移転を迫ることもせず、景色が守られるなら、と国立公園を管理してきた。インドネシアも住民を追い出すことなく管理できる施策を学びたいということだった。
ウランバートには、7種類のカラスがいるし、東京都のカラスは、多すぎるが、実は、 ジャマイカにはカラスがいない、動物園の檻にカラスがいる国です、と鈴木さんが言う。
人々は屋台での食事が多く、その食べ屑は鶏と山羊が食べる。その鶏や山羊は、再び、サテアヤの串焼きになって人の胃袋に戻る。見事な食物連鎖がカラスの餌にならないからだと説いた。 (昼食時間が迫ってきていた。話は省いて・・・) 環境問題を考える時、水道の蛇口の向こう側がどうなっているのかを考えることが重要で、都市の運営レベルを診ることが出来るのです、と一旦、締めた。
次回は14日ということで終わった。 開口一番、船旅をされている方々は、色々な分野で既に成功された方だと思っております、と謙虚な姿勢で話し始めてくれた。それなのに、前列に陣取った方々を含め、よくみると、居眠り姿を鈴木さんに見せてしまっているのは、恥ずかしい限りだった。興味が無いのなら、無理して醜態を見せないで貰いたいものだ、ビジネスの成功者たちよ。
昼食は妻だけ出て、僕は病院食だ。部屋では十朱幸代主演の「母への一番短い手紙」テレビ映画が流れていた。銀座のクラブからシンガポールへの出店という筋書きが、今航海にフィットしているからだったのかと邪推した。
こんな中、ムバラク大統領が辞任した。あのカイロのムバラクブリッジのムバラクだ。歴史的な日になった。
カテゴリ:アジアクルーズ日誌
17日目 寄港地 シンガポール
投稿日: 2018年9月7日
20110210 寄港地 シンガポール
午前3時に目が醒めた。冷房が効き過ぎていたので、止めて眠る。
5時には起きた。まだシンガポール入港には1時間ある。 早くに起きて7時には朝食を食べようと美子さんと約束したというので、そのまま洗顔をする。
天気は薄曇りなのか、ガスっている。港湾の起重機類が林立し始めた。 7時に約束通りレストランに出ようとしたら、美子さんと廊下ですれ違った。洗濯室からの帰りだという。先に7階に上がる。
食べ終えて、プロムナードデッキに出る。右舷側に、セントーサ島にユニバーサルスタジオらしい、オレンジカラーの斬新な屋根をした建物が見えてきた。左舷には、4棟の高層マンションが建設中だった。どこかで観た光景だ。海南島の人口島に建設中だった高層ビルと同じ、完成時にハーバーフロントのシンボルになっていることだろう。
それを背に妻を立たせて記念写真を撮る。もうこの完成した姿は観られないだろうからだ。 船首の方向に、噂のショッピングセンターの姿は見えない。 パスポートは前日に受け取っているから、接岸後速やかに下船できることになっている。
オーバーランドツアー組が小型のスーツケースを転がして、7階のピアノラウンジに集合し始めた。6階の下船口も準備を始めた。5階のツアーデスクは、数人が集まって、スタッフに詰問している。自由行動を取る人たちにとって、中心街のマップがコピーされていないことから、ツアーデスクの前では、不満の声が出ていた。なぜか、与えられたマップが、セントーサ島を中心としたものだったからだ。此処では、中心街へのシャトルバスが運行されないからだ。たしか、にっぽん丸の時は、短い停泊時間でも、オーチャード通りに近いデューティフリーショップまでは、出してくれていた。 これではどう散策せよと言うのか、セントーサ島は、もう行き飽きたのですよ、と、椅子に座りながら、その人はこちらに同意を求める。確かに、僕も同じように思っていた。ツアーバスに乗らない人のために、せめて、地下鉄経路でも添付してあれば、距離と方向が掴めるかも知れないのだが、ハーバーフロントセンターとセントーサ島のケーブルカーの間だけのマップでは用をなさない。
ぱしびに乗って妙だなと思ったことは、ライブラリー、いやライティングルームに、書籍は多いが寄港地に関するガイドブックは皆無だった。にっぽん丸には、常時数冊が閲覧できた。尤も、寄港地が迫って来ると、不心得な船客が、自室に持ち込んでしまって、利用できなくなってしまうという、腹立たしい一面もあるにはあるが、1週間前なら充分に読むことは出来ている。そして、そのコピーサービスを有料で受けることによって、下調べが出来ていた。ぱしびでは、それが叶わないから、ツアーデスクのスタッフに余計な負担が増えるのだ。船客が乗船前に下調べをしてこないのが悪いと言えばそれまでだが、クルーズコストからしたら、大した金額ではない。
イミグレでは、入国申告書とパスポート持参になる。預けてあったパスポートを受け取って、いつ出てもよいのだが、両替の準備が出来ていないので、9時過ぎまで待つことになった。
ハーバーフロントに併設されたヴィボシティと称するショッピングセンターに足を踏み入れる。しかし、まだこの時間、どの店も開店前で閑散としていて、気が抜けた。 両替の時間が押してしまったとしても、なんら問題はないことになった。
可児さん、村山さんも一緒に歩いたのだが、ウインドウショッピング以外、為す術はなかった。一番奥のドアから、外のウッドデッキに出た。左手から延びた長い舗道は、セントーサ島まで続いていた。妻は島まで歩いてくると言って、美子さんと僕を置いていった。
セントーサ島まで、空中ゴンドラでなくとも、モノレールも走っていた。 帰って来た妻が言うには、動く舗道になっていたから楽だったと。遠目には、それは判らなかった。
3階に上がってみると、露天商横丁の風情が作り込んだフードコートになっていた。美子さんがメロンを食べてみたいと言う。最近、船内のフルーツが硬い、甘味がないのだ。妻も試食してみるという間、それぞれ寄り集まった中華系のファーストフード店を見て回った。
中央に各店舗の調理場を集め、歯車のようにレイアウトされた各店舗が昼食の準備をしている。薄いプラスティックの手袋をして下ごしらえをしている。予想以上に清潔だった。包子専門、焼きそば専門、野菜鍋専門、湯麺専門と、商売を始めた場所の道路標識を貼り付けたり、開店から46年という数字を見せたりして、老舗を誇っていた。およそ、3乃至4シンガポールドルで食べられることが判った。
ショッピングセンターに活気が出てきた。店が開店したのだ。3階、2階、1階と下がった時11時半になった。美子さんは、イミグレを戻って船内食を取りたいと帰った。我々は、この中で、麺類を食べていくからと別れた。ヌードルの店にした。麺を3種類から選べと言う。平麺を指さした。次ぎにトッピングは何だと聞かれる。フィッシュボールと決めると、手際にいいリズムで、何種類かの具材が付け合わされて勘定。3.5ドル。好みで、2種類の調味料を掛けて食べた。勿論、スープの塩分には注意が必要で、美味いスープは半分残した。
ツアーバス発車時刻には、余裕があったが、既に船客の多くが座席に着いていた。 12時半で、「マリナサンズのスカイパークツアー」がスタートした。 ツアースタッフは、野田リエさん。現地ガイドは、メイ・リーンさん。急遽、追加したツアー企画だったので、優秀なガイドと、快適な大型バスは、1組しか設定できなかったと説明があった。38名に漏れたのは、可児さんたちだった。
バスは一路、マリナベイに向かった。6月24日に完成したばかりのマリナサンズは、風水を採り入れたデザインで、韓国の建設会社、サムスンがコンペで勝ち取ったという。
横からのデザインは「人」、そして、正面の三本のホテル棟は、3本の線香を表し、神と人間と土を意味しているそうだ。高さ220m、横幅320m。この3棟の上に、船をかたどったスカイパークとプールを載せるという奇抜な発想だ。
テレビ番組で、この船を持ち上げる記録映像を見せられたとき、世界でも注目される建築物になることはヒチ源だと思った。
ラスベガスの投資家フィリッペ・ジアード氏による大胆な開発力は、シンガポールへのコンベンション誘致に大いに寄与し、隣接したカジノは、ラスベガスを上回る収益を得ているという。彼によると、近い将来、日本にも進出したいと語ったこと憶えている。石原都知事の続投がなければ、カジノ関連の法律成立は難しいかろうが、オリンピックの誘致失敗からして、観光立国としての東京にカンフル剤となることは間違いない。
三棟のホテルで中央の客室はシャワーのみだそうだが、話題はこの巨大な建物に入ったレストランの名店だという。我々観光客は、3棟目の地下からスカイパークへの入場券を買ってエクスプレスエレベーターで上がる。シネコンのようにシンプルなチケット売場は、がらんとして客の行列もみられなかった。時刻は12時40分。昼食時間を狙えば、スムーズに上がれることが判った。
エレベーターは、56階まで50秒だった。エレベーターメーカーを確かめる間の無く、降りた。観光客に開放されているスカイパークは、全体の1/6よりも狭いエリアである。屋上の人数制限はあるようだが、今日は人も疎らでナイスタイミングだった。
床はウッドデッキで、縁は強化プラスティックの透明板で囲われているが、ビルに当たって巻き上がる風は全く感じない。カメラショットのために僅かな隙間が空けてある。もう1段上がると、カフェテラスがあった。つまり、そこは、61階になる。
マレー人の間で伝わっている昔話では、昔シンガポールを発見したマレー人の王族がこの島に最初に訪れた際、頭はライオン、体は魚の動物がこの地を治めていたそうだ。そのため、彼らはこの土地を「ライオン(Singa)の都市(Pura)」を意味する「Singapure(シンガプーラ)と名付け、マーライオンを国の守り神として祭った、という伝説がある。
シンガポールには、5頭のマーライオンがいる。有名なマーライオンは、海を眺めるマーライオンパークに立っている。2頭目は、その後ろに立つ、子供っぽいマーライオン。3頭目は、セントーサ島に立つ37メートというマーライオン。4頭目は、シンガポール観光庁の敷地内。そして、5頭目のマーライオンは、これから行くマウンティン・フェーバーという山の上である。
眼下のパークのマーライオンは水を掃き出していなかったが、シンガポールを一望できた。屋上からラッフルズホテルは見えなかったが、反対側に広がるゴルフコースは、まさに都心のゴルフ場で、羨ましい限りである。その横には、海水から摂取する市民の水道水の源であると聞いた。例のマレーシアからの決別とも言える自衛策の水道政策である。
いつもなら、この売店で、記念のキャップを買うところだが、シンガポールドルが僅かしかない。USドルが使えない。カードで買うほどでもない。そういう気分だった。 30分ほどで階下に降りた。
カジノに雰囲気を覗いてみましょうとガイドが別棟の通路に降りた。パスポートの提示を求められた。なんなく通れるものと思ったら、背中のバッグをデポジットしろと指示された。カウンターに預けた。しかし、後続組は誰もいなかった。ツアー組は広いカジノに消えていった。僕は独りでその中をゆっくりとした足取りで見て回った。2階に上がれば、全体が俯瞰できると言われていたことを思い出して、エスカレーターに乗った。いるいる。背の低い老人たちがぞろぞろとガイドに引率されて歩いている。
妻に何をしていたのかと訊かれた。デポジットの話をした。ツアー組の誰もが、ミニバッグを背負ったままだった。どうやらサングラスをかけた僕だけが、怪しい人物に見えたのだろう。 君たちに問題は何も起きなかったのだろと、妻に問いかけた。妻が、にやっと笑った。何かあったのだと判ったので、カジノを出てから訊いてみた。
「GYRXFFEXXX!!」 「ああ、皆さん、少し静かに話して下さい。日本語は、ちょっと五月蠅かったのでしょうね、お静かに・・・」ツアー担当クルーがそう言って、船客を鎮めたのだが、妻の耳には、こう聞こえていたのだ。「帽子を外してください!」と。 二度目にまた、注意された。今度は解ったのか、「皆さん、帽子を取りましょう!」
こうして、一杯の珈琲ブレイクもなく、慌ただしく、マリナベイサンズの観光は終わった。 青学マスコミ会の後輩と此処か、ラッフルズホテルで会う約束だったのだが、彼女にとって人生最大のイベント、結婚式の前々日とあっては、それも出来なかった。彼女は、新婚生活をシンガポールから始めるのだ。ニューヨークから此処へ転勤が決まった男性と一緒に新しい生活が始まる。ボンボ・ヤージュ!!
マリナベイからバスは、オーキッドガーデンへ向かった。シンガポールの国花である。 妻は、ガーデンに立ち寄るのが大好きな人だから、歩き回るだろう。カナダのブッチャーガーデン(カナダ・コロンビア州のバンクーバー島)も、独りで出掛けたくらいだ。僕には、とんと関心がないのが不満だろうが、仕方がない。
たらたらと歩き、日射しの強さにも疲れた。最後のコースは、マウンティン・フェーバー。 シンガポールでは2番目に高い山になる。高度125m。狭い山道に片側駐車するバスの列から下車した。 だらだら坂を登る。
「頂上に上がりますともう一頭のマーライオンが立っています。そこからは、ぱしふぃくびーなすが観られますよ」
カメラを持った老紳士は、喜びの顔になって先を急いだ。マーライオンは立っていた。しかし、ぱしふぃっくびーなすは、木陰とビルの向こうに隠れて、どうあても見えない位置である。あの老紳士を探したが、どこに行かれたか、見当たらなかった。がっかりされたのではないか。
マーライオンは、逸話通り、虎をライオンと見誤ったように、森の中に立っていた。
だらだら坂をみんな黙って降りた。バスに乗りこむステップが、僕にもなんだが高く感じた。 こうして、急遽企画されたバスツアーはこれで終わった。
シンガポールドルの残金は5ドル。なにか飲み物を飲むかと、イミグレに入る前にファーストフード店を探した。モスバーガーがあった。有り金すべてを差し出して、キャッシュオンディリバースタイルでオーダーしようとしたが、どうも、店員は、そうして欲しくないらしい。
先ず、フィレオシッシュを頼んだ。それを支払った。トレイにナンバープレイトを置いた。次ぎにアイスコーヒーを頼んだ。それが置かれた。次ぎに、おつりで、なにか、買えるモノはないかと言ったが、無いという。 フィレオフィッシュを運んできてくれたウエイトレスに訊いた。有るという。ニヤっとして、フォローズン・ストロベリーという。そんなに安いわけがないがと、妻がカウンターに出ると、包まれたイチゴが三個。中を開けると、まさに凍ったイチゴだった。笑ってしまったが、しかし、これが美味かったのだ。 コインで10セントだけが残った。
イミグレを通過したときには、既に出航数分前。部屋に入って、シャワーを浴びだしたら、船は離岸した。
万歩計は13555歩だった。妻は、セントーサ島まで歩いたので、更に歩いたことになる。 もう来ることもない、シンガポールだが、いつ訪れても変貌する都市だ。
1945年、追放されるようにマレーシアから独立したシンガポール。多民族の力が結集して躍進した国としては、米国以上のエネルギーと信念が漲っている。NHKが特集した「沸騰都市」の代表格だ。
リー・クワンユー首相は、優秀な人間が国を造ると言い、また日本を見習えとまで言い続けてくれたが、いまでは、ホーチミンに言われるまでもなく、人材を創り出す日本の教育は瓦解してしまった。政治理念は基より、金融もプラント化学も先進医療も追い越されている。
シンガポールを語るとき、シンガポールは既に古くなっている国だ。
カテゴリ:アジアクルーズ日誌
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はじめに
徒然なるままに、書きますが、街で耳にしたこと、眼に入ったこと、などなど、生活を変えるかもしれない小さな兆しを見つけたいと思います。