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060607 ニューヨーク2日目

投稿日: 2014年3月7日

060607

朝から雨だった。吹き降りだ。選りに選って自由行動の朝に、なんてこった!今日は、妻と、荘輔さんから頼まれた菅井美子さんとを連れての”NYお上りさん”第2弾。

 

予定では、42stから、ニューヨーク・ウオーター・ウエイの遊覧船に乗るつもりだった。しかし、この雨では、遊覧船は面白味がないだろう。対岸の景色も雨でぼやける。オープンエアの椅子にも座れない。前日にバッテリーパークには行った。イースト・リバー側のフルトンで昼食は食べた。国連ビルも表側は見た。船でなら、リバティ島の女神に近くなることはあっても、雨で写真には、よく写らないだろう。ルーズベルト島手前までをUターンしてくる19$で90分の半周クルーズは、中止することにした。

 

傘が要る。寒いかも知れないからと、長袖のカーディガンを300mmレンズカメラと一緒にディバックに詰めた。妻には出来るだけ、小さなバッグにせよと言った。僕は、濃紺のチノパンツにデニムの半袖、ノースリーブのウインドーブレイカーと Kスイスのスニーカー。

とりあえず、埠頭から出るシャトルバスで、42stのウインストン・ホテルまで行くことにした。東さん夫妻も乗っていた。さて、東さん、雨の NYを、どう切り撮るのだろうか、楽しみだ。

 

ウインストンホテルを出て、タイムズのビルを抜けて、タイムズ・スクエアに出る。

様変わりしていた。最後に訪れたとき、このエリアは再開発計画があるのだと言われ、工事で歩きにくかったことを思い出した。

その再開発計画にディズニーを誘致したことで、怪しげなショップが消えたのか、雨の中でも明るくなっていた。ジュリアーノ市長から引き継いだブルーム・バーグと言えば、証券会社のソロモン・ブラザーズ出身で、ワンルームオフィスで 4人の仲間と金融情報サービスの会社をスタートして、いまや、 8000人余りの世界的企業となっている実務家上がりである。癌に冒されていることを公表しながら、9・11の処理対策に奔走したジュリアーノが、グラウンド・ゼロを「聖なる記念公園」にと考えたが、それよりも、ブルーム・バーグは、さらに現実的なビジネス感覚を発揮しているというからには、再び世界一の高層建築を創りあげようとするのではないか。アイデアを出して投資させるのが、彼の得意な業粋だっただけに、である。地下鉄敷設でもケネディ空港へ 18分で行ける計画案があるようだ。また、 2012年のオリンピック誘致に向けての再開発計画もあったようだ。

 

昨夜、オプショナル・ナイトツアーで「美女と野獣」を観劇したという美子さんは、修了後にブロードウエイの、どの辺りを散策したのだろうか。妻とだべりながら歩いているので、問いたださずにそのまま歩を進める。

ハードロック・カフェの角を左折して、アッパーへ歩く。

コロンバスサークルの手前 58stをフィフスまで歩き、プラザホテルの姿を見せておく。

 

格式のあるNYのシンボルが、容姿を変えて、高級レジデンスになるというのには、どういう事情があろうが、寂しいものだ。

僕にとってのプラザホテルの表玄関は、スーパードライ発売2年目のCM撮影でニューヨーカーを驚かせるような大掛かりな仕掛けをした場所なのだ。空にはヘリコプター、玄関前には TV報道中継車2 台、階段を下りてくる閣僚クラスの男には SPを配し、中継記者に扮した落合に混じって数十人のジャーナリストが、階段に攻め上がる。この劇的なワンシークエンスに、通勤途中のビジネスマンや朝早くの観光客が野次馬として遠巻きに集まった。本当に何か事件が起きたのかと、人がどんどん集まってきていた。ヘリコプターのホバリングが一層、臨場感を煽る。このホテルが閉じてしまうのだ。妻には解らない感傷に独り浸っていた。

セントラルパークは南北約4km、東西0.8kmの広大な敷地の世界的都市公園のひとつだ。動物園もスケートリンクも小さな湖もあれば、メトロポリタン美術館も隣接している。ダウンには、プラザホテル、アッパーはハーレムがある。なんとしても、映画好きな妻には、例の石橋を歩かせてやりたいものだと急ぐ、が彼女たちは、あの花がなんだ、この花がなんだと、植物園ですればいいような会話でたらたらと歩く。早く石橋に行くんだよと急かせた。

 

橋の上で記念写真を撮ってみる。ところがなんと、彼女たちを歩かせると、首から上しか見えないのだ。肩が隠れてしまってなんとも、みっともない。さすがに映画スターは様になるものだとあらためて感心してしまった。尤も、ロケには、クレーンという高さと写角を自在に変えられる機材がある。

かつては、羊を放牧させていたというセントラルパークだが、「むき出しの岩を見たら、マンハッタンの岩盤を氷河が削った後があるかどうかを探せ」と言ったコーディネーターがいた。なにしろ、ここは、かつて1.8万年前には、エンパイヤー・ステート・ビルも埋まるほどの厚い氷の下にあったそうだ。その氷河が一日30cm位の速度で、南に岩や土砂を圧しながら流れていったという。そのとき岩盤には削り取られた勢いの線が刻み込まれているものがあるかもしれないから、注意して見てみろということだった。僕には見つけられなかったし、今日は雨だ。時間を上手く使うためには抜け出す道を考えることだった。

 

ロンドンの寄港地グリニッジ・パークで、妻たちがリスを追いかけたことがあった。リスならセントラルパークで見られるし、いつでも撮れるよといった手前、樹に登るリスも見せ、それをカメラに収める役もした。映画シーンに度々ロケされるスケートリンクの場所まで入り込むと、カーネギーホールが遠くなるのでやめる。動物園の横から抜け出る。

 

E72stからマジソンアベニューのE62stまで下がってくると、馬上の貴族姿が、屋根にあった。エルメス・ショップである。記念に店の前で二人をパチリ。

 

そろそろ、御茶がしたいと二人から言われ、パークアベニューE61stのリージェンシー・ホテルに入る。ここのカフェレストランなら、落ち着ける。リビングルームのような、それでいて書斎のような、落ち着いた雰囲気の中で、歩き疲れた足を休める。トイレも借りる。次の行き先は、頭の中で、ブルーミングディール店にしている。盛岡の川徳デパートを担当した時に、ブルーミングディール方式の店内展開、ディスプレイを提案したことがある。デパート担当者なら足を運びたい見学店だ。そこへ連れて行こうと思っている。

 

今まで初訪問する国で、僕が必ずすることがあった。1,映画の看板を撮り、2,量販店の家電コーナーを覗き、3,本屋では地図コーナーに行くことだ。

映画の看板からは、ハリウッド映画も来ているのかどうか、生活者は、現在のアメリカ文化を見知っているのかどうかを推察し、その映画上映が日本とどれくらいタイムラグがあるのかを知りたいのだ。家電売り場からは、どのくらいの電化技術がここの生活願望レベルなのか、それに必要とする電力は潤沢なのかを推測してみたかった。ブックストアでは、地図を開けて、その国と日本の距離感をどう認識されているか、しておきたかいからだ。中国人か、韓国人か、日本人と思われるのかも気になった。ジャパニーズと答えたときの、相手の反応を見たかったからだ。

だが広告の現場を離れてしまってからは、その回数も減ってきた。心が衰えたものだ。妻に言わせれば、それでも仕事の眼をするというから、「いい加減」な頃合いかも知れない。

パークアベニューを横切って、E61stレキシントンへ入った。ホテルを出る前に、ブルーミングディールのストリートとアベニューの数字を頭に入れていたのに、歩きながら妻たちの話に加わってしまったら、その数字が頭から消えてしまった。交差点の角に立つと、余りランドマークのない場所だった。折り曲げておいた地図をポケットから出してしまった。これは、危険度の高い外国で、一番やってはいけないことだ。慌てて戻した。前方にある白いビルがブルーミングディールだと思うが、と見込みで 1本ダウンした。やはり間違いなかった。入口では。アメリカらしからぬ細やかなサービスがなされていた。雨傘をこの袋に入れて入ってくださいと、店名の入ったビニール袋を手渡していたのだ。人件費の高い国で、なんとまあと日本的なサービスに感心させられた。半地下からメンズのフロアへ続くのだが、本日は女性陣の案内だ。まづ、エスカレーターでどんどん上に上がる。途中でフロアに降りられたら、時間が足りなくなる。家具売り場まで上がってから、好きなフロアに下がればいいとした。美子さんは大柄だから、この国のものは似合う。ブルーミングディールは、とにかく、カラーバリエーションが豊富だという印象だ。彼女の足が止まったのはタオル売り場だった。半額セールをしていた。鮮やかなオレンジカラーだ。タグを見ると「ラルフローレン」。ロンドンの角で説明しておいたブランドだ。気に入ったと即決。クレジットカードは OKだと、にこやかに笑った店員に、JTBは駄目だとやんわり拒否された。マスターかビザは無いかと問われキャッシュにした。

 

大きなペーパーバッグを手にすることとなった。雨である。ビニールバッグは誰もいなかった。妻は、テーブルマットを買った。クレジットカードを出すと、すぐに処理して返してくれた。サインは画面にデジタルペンだった。途中少し間違えたので手が止まった。そのままになった。だが、店員は見ないままに、それで持っていて終った。サインの国でありながら、アバウトなところが危ない。これでは、やられるなと更に怖くなったものだ。

ブルーミングディールらしさを見る間もなく出た。ブルーミングディールで買い物をしたという経験だった。

 

さて次なる案内先は、カーネギーホール。レキシントンを 57stまで降りて、フィフスを横切る際にティファニーを通ろう。四つ角でティファニーとトランプタワーを背にパチリ。カーネギーホールの前は人だかりがしていたので、プログラムの看板前でパチリ。セブンスを 54stまで降りて、イーストに向かう。昼食がしたいと言い出した。懐かしい定宿、ワーリックホテルでと思ったが、メニューを見て、妻たちは首を横に振る。

そこを抜けて右手のMOMA(近代美術館)の中のレストランはどうだろうと入ると、入場券を買うのに並んでいる。雨だから、ここに集まるのだろうか。ここも入ったことにして他に行こうという。美子さんは、雨でペーパーバッグを持って歩くのはいやだと、食事をしたらシャトルバスの場所に帰りたいという。まさか、フード屋台というわけにもいかないだろう。ニューヨークには、そのフード屋台、3100軒もあると聞く。

 

ならば、ラジオシテイからロックフェラーセンターの地下広場で食べようかと、54から49まで南下する。雨でレストランは、オープンエアの部分を閉じていた。エレベーターで地下に降りる。そのレストランより、手早い店がいいと言うことで、イタリアンにした。

雑然と張り出した椅子に座り、一枚の紙っぺらからメニューを見た。ライトプレートとビッグプレートに分けられていた。クアーズが珍しくある店だった。僕と美子さんは、それとビッグのスパゲティ・ウイズスカンピを、妻はコークとカラマリのフライをオーダーした。ところが、ここで思わぬ時間を食った。ビジネスマンの立ち寄るファーストフードにも似た店なのに、遅すぎる。立ち上がって、担当にクレームをつけた。解っているといいながら、それからは我々と目を合わせようとしない。トイレに行ってきたが、未だだった。料理が運ばれてきた。どちらかといえばフライの方が量は多かった。

 

 雨は衰えていなかった。50から42まで更に南下した。タイムズスクエアに戻った。美子さんは此処からなら独りで行けると言うが、荘輔さんから預かった奥様である。ウイルソンホテルまで急ぐ。

我々は、ここからどうしてもソーホーまで行ってきたい。42の駅から、CE線が走っているので地下に降りる。自動販売機の無い口に降りてしまった。 そうか、赤のボールマークはそれがないという印だったのか。 再びホテルに臨時に設けられた「にっぽん丸案内所」で、メトロカードの買える口はどちらだと訊いた。

自販機にコインが入らない。いちいちデジタル表示板にタッチしないと進まない。面倒だが、説明の言語は、中国語か英語かとか、1日パスか、シングルかとか、それはキャッシュか、クレジットカードかとか、セレクトして初めて、コインの口が開く。1セントから使えるのが、さすがに庶民の足だ。持ち金の細かいコインを全部入れた。磁気カードが出る。カードをスライドした者しかバーは動かず、昔のように跳び越える柵ではなく回転式ドアが待っている。これでは、急ぐ客は間に合わない。

アップかダウンかという行先表示。ABCか123という路線表示も解りやすいのがニューヨーク。 CEで一気にダウンタウンに南下する。キャナル・ストリート駅で降りる。駅からブロードウエイに向かって 5本分アップする。なんとしてでも、SOHOの文字の書かれた飾り物を買いたい。名古屋の SOHOJAPANのオフィスに飾りたい。

以前、ロケでぶらついたときには、あちこちで目についたそれは、今回、なかなか見当たらない。雑貨店に、何度も首を突っ込んで訊く。足も肩も濡れてくる。焦る。諦めようとしていたその時、見つかった。

捜し物は、車のナンバープレートなのだ。スーベニールとしては、格好の代物なのだ。大城社長は喜んでくれるだろう。オフィスに飾ってくれるだろう。値段も聞かずに即決で買った。それ以上のものが見つからなければ、ソーホーの観光スポットを省いて、帰る。ブティックもレストランカフェも、雨足に祟られてか、閑散としていた。

 

角のユニクロの店舗が入るらしく、ロゴがベタベタと汚く張られていた。店舗を買い取ったばかりだろうか、オープンすれば、目に留まりやすいロケーションではあるが、ソーホー地区の洒落たブティックのゾーンからは、正直、離れているといえる。たしか、昨秋ニュージャージー州にショップオープンさせたはずだが、住宅地よりも、ニューヨーク大学の学生も出歩ける今度のソーホーの方がマッチすると思う。世界最大の広さになるようだ。

ブティック店に入って、帰りの駅を念のため訊く。向かおうとしていたスプリング・ストリート駅よりも、キャナル・ストリート駅の方が近いというので、戻ることにした。

 

今度は、自販機に1ドル札が入らない。フェイスアップという通りにしても返ってくる。後ろの女性が親切に教えてくれるのだが、雨で湿っているのか。左右を逆にしたら通った。どうやら、この駅の自販機は、紙幣の顔向きに好き嫌いがあったようだ。日本では、裏表どちらになっても読み取れる能力があるが、アメリカではまだこの点は荒っぽい。多忙なビジネスマンは、地下鉄に乗らないで、リムジンかタクシーなのだろうか。

 

シャトルバスの時間はホテルを16時発。これに乗り遅れたなら、あと1時間後だと言ったら、妻はどこかでオチャしていましょうと淡々としている。

僕は腕時計を睨み付けている。駅に着くのが2分前くらいだろう。ホテルの横が地下鉄の口だ。

駆け上がって信号を渡ったら、信号を渡る直前でバスは停まっていた。青だからと、妻を急いで走らせた。

バスのドライバーに開けてくれと閉まっているドアの前でパントマイム。ドライバーも、左右を見て、開けてくれたのだ。間に合った。ぎりぎりセーフだった。

 

ピア91

カテゴリ:続クルーズ日誌

060605 大西洋7

投稿日: 2013年9月30日

060605

昨夜はメインショーをキャビンでTV中継を見ていたのだが、体を横にしたら、終わりまでは目を開けていられなかったようだ。 すぐ眠りに落ちたのだろう。だから、彼女たちのオリジナル曲「世界一周の歌」は、聴けずじまいだった。 目覚めたのが25時。いつもなら、まだ、起きている時間である。揺れが大きくなっていた。 だからといって、起き上がってPCを打ち込む気力も、文庫本を読む気もなく、また目を閉じた。左肩と腕がまだ痛むので、身体を右に向けて眠る。

再び4時に目覚めた。夢を見ていたが、思い出せない。

5時30分、ローリングしている。太陽は既に、船の右舷後方に上がっている。水平線のすぐ上は雲に覆われているのだが、上空には青みが多い。晴れるか。

6時50分、廊下を行き交う人の挨拶が聞こえてきた。水平線はくっきりとして、雲が白く立ち上がり、天空は青空が広がってきた。揺れは、まだ収まらない。 キャビンの狭いトイレで用を足すにも、バーを握っていないと危ない。ドレッサーの前に置かれた妻の目覚ましが鳴っている。

朝食には8時前に入った。最近は、八点鐘を食堂で聴くことが増えている。 八点鐘の鐘を希望する船客が叩いているのだが、毎朝その叩きっぷりをキャプテンが言葉を添えて褒めているのが笑いを誘う。 いや、キャプテンは、苦心しているのではないかと思う。続いて流れるキャプテンのコメントを松田さんは、目をつむって聴いている。 僕は、走り書きをする。朝食を終えてしまった菅井荘輔さんは、キャビンでそれをメモる。 東さんは、それを聴き終えてから、立ち上がって朝食のトレーを取りに行く。 キャプテンのアナウンスに拍手する人もいる。様々な朝だ。

八点鍾『にっぽん丸は現在、ニューヨークの東、360海里(667km)を航行中です。

波がいろいろな方向から来ており、小型船のような周期の早い揺れになっています。あまり気持ちの良い揺れではありませんが、徐々に静かになってゆきます。 

この波は、ボストンの北東側にあった低気圧に南風が吹き込み、うねりが生じたものです。すでに低気圧は昨晩過ぎ去り、大陸から高気圧が張り出してきていますので、お天気は回復してゆきます。 

このような揺れを感じていると、今から約400年前にイギリスのプリマスを出港した、102名の移住者を乗せたメイフラワー号を思い出します。 メイフラ ワー号はバージニア州に向かっていましたが、悪天候によりニューヨークの北、マサチューセッツ州のプロビンスタウンに到着しました。 

その約130年前の1492年にコロンブスがサンサルバドル島に上陸して、新大陸発見!と勘違いをしました。 今から何百年も前に、西に新しい新天地を求めて航海をしてきた人達に思いを馳せて、本船はニューヨークに向かっています。 

明朝06:00にハドソン川の河口で水先案内人を乗船させて、09:00にニューヨークに入港します。入港1時間前頃に「自由の女神」や、その昔移住者が到着すると検査の為に上陸させられたエリス島が見えてくるでしょう。 お天気は回復してゆきます。』

高嵜さんが、ニューヨークのサークルクルーズ船は30分間隔だということ、半周のクルーズ船は、イーストリバー側からだと言うことを教えてくれた。

ガイドブックだと、半周クルーズも同じハドソン川から出ていることになっていた。

朝風呂帰りの藤川さんを捕まえた。「1日ツアーで帰船した後の18時30分に、税関出口にタクシーは呼び寄せられますか? サークスクルーズ船のタイムスケジュールが判れば知りたいのですが。着岸した埠頭から、観光船発着場まで歩いて危険はないか?」「調べておきます」

デッキゴルフコースを使う朝の時間が、我々メンバーに解放された。新しい人が参加すると「教える」役の黒川君が、なにかと気遣って大変だと思ってはいたが、 船側の星野、蘇、黒川会談の結果、初心者への手ほどきは午後からの時間帯へ変えましょうかと高嵜さんに打診があったという。 いい打開策だと思う。ダンス教室と重なって、プレイしたいが出来ない、そういう方々が多いと思うからだ。 我々のメンバーの中にも、9時からダンスの横田さんと、10時からの高橋さんは、互いがメンバチェンジして行く。

これで、午前のデッキゴルフは教室ではなく、同好会の時間としてもらえたのだ。 従って、9時のプレイから、「ホールイン・ワイン」は、実効となった。

白先攻は、高嵜、萩原、西出、工藤、山縣。赤は管井、菅谷、松田夫妻、中島。

リーグ優勝決定戦の日であるから、僕の2試合目はない。右肩、右手、右足の問題をどうクリアするかの練習だけをして、丁寧な打ち方を心がけたい。 そう密かに思い、打ち出したら、ミスは思いの外、多くなく、1,2,4を順調に抜け出し、しかも、味方を助けながら、早くに権利玉になれた。なんと楽な動きか。 肩の痛みは気づかれてはいない。早く湿布を貼り替えたい。同点上がりだが、権利玉の多い白が勝ちとなった。

10時05分からは、B(関西支社)対C(関東支社)の優勝戦が始まった。 高嵜さんの調子より、松田さんの方が上回っていたのだが、ナイスチョット松田が、2の帰り道3に向かう前にドボンされ、苦戦。 スイスイ工藤が、スイスイ行かず、焦りから何度もスカを繰り返すという状況。惜しまれるショットが数多く見られた。 本間さんのケアにロングシューター松田が孤軍奮闘。それでも、最後は面白い展開になった。 高嵜独りに対して、工藤、本間、松田のせめぎ合い。頭脳ゲームである。 詰め将棋。本間さんを安全に上げさせられるため、高嵜を追い落とすチャンスを工藤さんが焦り、高嵜さんは中央で、失敗して集まる頃合いを蛇のようにじっと我慢した。 目玉球の休憩が解けた時、中央への踏み石が出来、ゴールした。 ナイスチョット松田をドボンから助け出せない4コーナーでの攻防が勝敗を決したものと思う。

Cチーム高嵜、Bの松田、Aの萩原と戦績順位は、年功序列になってしまった。

賞品を買って、ニューヨークを出航した夕方に、リドデッキで表彰式をすることになった。

今夕は、妻は、高嵜部屋で菅井夫妻とアペリチフを飲み会をするとか。戦勝祝いだと高嵜さんが、ウインクした。敗戦の将語らず、だ。

シャワーを浴びたくなるような汗ばんだ日は、何日ぶりだろうか。暑くなってきた。

昼食はエリー担当の奥座敷で、そうめんを食する。ご飯はやめて素麺をお代わりした。窓の外が騒がしい。 まんぼうが海面に出てきたと、美子さんが駆け込んできた。望遠レンズを持たないデジカメの人は、右往左往しているだけだった。

NYでのMET(メトロポリタン美術館)が観光客で行列するという情報を得た。 絵を見るより、生きた街を見歩く方が時間価値は高いな、と考えた。絵や彫刻は、機会があれば、上野西洋美術館へ来るかも知れないし、例え門外不出の作品でも、書籍ビデオという手がある。 しかし、生きた街は移り変わる。自分の目で見て肌で感じてこそ、観光だと思うので、ニューヨークで暮らすサムに訊いてみた上で、2日目の行動を練り直すことにするよ、と美子さんには伝えた。

宮崎先生の講義は、最終回。「海からの世界史・ラッコと鯨の海」。

ロシアのピヨトールⅠ世が、北極経由で中国・インドとの貿易ルートを得るために、アジアとアメリカ(後の国)が陸地続きであるのかどうかを、 海軍勤務のデンマーク人・ベーリングに下命し、陸続きではないことを知る。 そして、さらに、アメリカ大陸の海岸線探査と航路開拓を下命。 彼は、帰路、ベーリング島(後の命名)で死亡してしまうが、その島が黒テンよりも良質な毛皮採取となるラッコの飼育圏であることが判った。

一方、日本人船長・伊勢の大黒屋光太夫が、紀伊から江戸への回船で暴風雨に遭い、七ヶ月後にアリューシャン列島のアムチカ島で、ラッコ猟のアリュート人に助けられた。

ラッコの毛皮貿易の代わりに生鮮食品を得たいロシアは、大黒屋光太夫を介して日本との国交を計ろうとした。 ロシア全権大使を伴って根室に到来し、幕府の要請で松前藩に交渉したが拒否され、その後、長崎入港許可証を手に入れた。 ロシアとアメリカの合弁会社、露米会社の支配人レザーノフが、フィンランド湾から大西洋を南下しホーン岬を回って長崎に到来したが、幕府は彼を半年間隔離の後に退去を命じた。 それを不満としてレザーノフは、皇帝の許可を得ず独断で、松前藩の守る樺太、択捉と利尻を攻撃することになった。その後、幕府は警護体制を強化すると共に、 今度は幕府が、勢力範囲を調査する目的で間宮林蔵を派遣し、アムール川下流にまで辿り着き、樺太との間に海峡(後の間宮海峡)があることを発見する。

幕末の日本に開国を迫ったロシアとアメリカに、こうした領土問題が横たわった。

16時、1階のシアターで観た映画は「映像で知るジャズの歴史、大恐慌とジャズ」。

1929年の大恐慌で荒んだアメリカ国民を癒したのは、ラジオから流れる無料の音楽だった。 そして、ルイ・アームストロング、ベニーグッドマン、カウントベーシーの曲が生まれていった。

17時30分からは、焼酎持ち込みで高嵜ルームにお邪魔した。塩分抜きのおつまみで、ビールやワインを空けてしまった。 四人の高笑いは、おそらく、廊下を歩く人に聞こえる程、騒がしかったことだろう。

ダイニングには、限度ぎりぎりの19時に滑り込んだ。 既に、僕の特別食はセンター奥のテーブルに置かれていた。ここへ菅井夫妻も含めて、6人席を作ってもらった。 先ほどの空気の延長だった。誕生日でも結婚記念日でもない、キャプテンも来ないテーブルなのに、盛り上がっていた。

山縣さんが我々の旅行記の本を買いたいのだが、と妻に打診したという。部屋で手持ちの本を探したら、サムへの土産用に1冊と予備1冊だった。ほっとした。

ライブラリーで読まれた他の船客からも、船内の売店で売ってくれるといいのにと何度言われてしまう。 嬉しい反応だが、こういう声が大きくなったら、果たして、置いて貰えるのだろうか。 国内線クルーズの売店販売となっても、近い将来のワールドクルーズへの潜在顧客を啓蒙することができれば、 商船三井客船にも陰のPR誌になると思うのだが・・・。

カテゴリ:続クルーズ日誌

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