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下谷笑鬼の片眼
73年前の誇れる日本人達
投稿日: 2013年4月3日
明日、知り合いが日本郵船の「飛鳥Ⅱ」で何度目かの世界一周に旅立つ。歓送会を兼ねて、夕食会をした。
自分たちも過去に二度回ってきたが、世界が平和であるからこそ、三ヶ月が楽しめるのだ。最初のクルーズに出掛けるときは、イラク戦争が勃発した。かなりの船客からキャンセルが出たことを覚えている。しかも、最初の寄港地、中国では、サーズが猛威を振るっていた。下船する我々を、マスク集団だと現地では苦笑された。その中国では、いま、PM2.5で、缶詰にした空気が買われている。
それはさておき、世界一周ともなれば、航路の発表と同時に、予約が始まるのが1年前。乗船までの間には、世界は元より、個人の生活にも様々な突発的出来事が起き得る。入院加療中の縁戚から訃報が届くことも、家族に事故が起きることも、愛犬や金魚などペットの世話から鉢植えの水遣りなど、いかにして面倒を見て貰うかに苦慮する。
三ヶ月の旅では、持病の薬も、世界の土地に四季に合わせた衣服も備える。
それらの葛藤を超えて乗船、離岸すると、どっと疲れが溢れ出る。
海上の安定する桜咲く4月に国を離れると、すぐにも赤道の夏、インド洋からケープタウンを回って、ヨーロッパに入ると、肌寒い秋が、そして大西洋を横切って、キーウエストから、カリブ、パナマを抜けるまでは夏、アラスカの氷河まで木乗したら冬、そして帰国した時には、もう何度かの夏の陽を浴びることになる。
4月2日、今年で73になる。しかし、私の生まれた1940年の10月には、歴史的に忘れてはならない航路があったのだ。
先日、私の参加している「シニアエージ」という会で、104回目のセミナーがあった。三田の慶應義塾大の南校舎で、「命のビザ、遙かなる旅路」北出明さん(仏文卒)から、エモーショナルな秘話を聴く機会を得た。
11ヶ月に4664名のユダヤ難民を乗せた、その航路とは、ウラジオストックから敦賀港である。北出さんは、あの杉原千畝さんの人道的行為を富や名声とは無縁の、陰で支えたJTBと日本郵船のスタッフにスポットを当てたいとして取材し、その後のスギハラサバイバー、チルドレンを北米に訪ね歩いた記録である。
そもそも、海上輸送を要請したのは、ニューヨークのウオルター・ブラウン社(後年、トーマスクック社に合併)でJTB(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)の高久甚之助専務理事(伊賀上野出身、ペンシルバニア大MBA取得)の勇断で実行されたという。取材の契機は、日本海輸送の担当者、大迫辰雄に託した7名の写真だった。
実は、かつて勤務していた会社で、番組企画を私の制作チームに要請されたことがあった。社内の媒体企画部署から、異なる部門からの視点で番組提案を依頼されたのだ。10本近くの企画を出すに当たって、吉澤ADから「杉原千畝の勇気」という題材を提案され、中学時代からの友人が勤めるテレビマンユニオンへ打診し、社内提案をした。しかし、当時は、当社内にそのヒストリーを知るものが残念ながら居なかったがために、簡単に没にされてしまった経緯がある。1986年前後のことである。当時、悔しがったものだ。
数年後、徐々に国内で「杉原千畝」さんの偉業がクローズアップされてきた。
であるから、三田の教室で聴く私にとって、胸に迫るものがあった。
私の生まれた同じ年に、ユダヤ難民が荒れた日本海を渡ってきたこと、敦賀の元町の「朝日湯」が彼らのために、一日休業して、銭湯を開放したこと、与えられた林檎を一口囓って、後ろへ回し全員で味わっていたこと。小学校の教師は、生徒達に、住む国が無くなった人たちだが、学者や優秀な技術者経ちも多いのだ、みすぼらしい身なりだからと見くびってはならないと、教えていたこと。神戸では、キリスト教の斉藤信男牧師がユダヤ難民の世話をしていたということ。妹尾河童の「少年H」にも、野坂昭如の「火垂るの墓」にもそれが出てくると、北出さんは話した。
加えて記せば、手嶋龍一「スギハラダラー」は、このスギハラチルドレンを下敷きに世界のアンダーグランドを実に丹念に織り込んで壮大なストーリーを書き上げている。
そして、神戸、横浜から自由の地、に送り届けたニューヨーク事務所、岩田一郎所長が、すべての業務を終えた帰国したのは、真珠湾攻撃開戦の3週間前だったという。
日本郵船は、何隻もの客船でシアトル港へピストン輸送したのだが、開戦時に保有していた222隻も、戦禍で失ったのは、185隻、残ったのは僅かに37隻だそうで、その中でも大型で優秀船だったのは、あの氷川丸だけであったという。
その氷川丸が係留されている横浜の桟橋から、海洋国日本の客船、「飛鳥Ⅱ」が、4月3日、明日出航する。
1991年4月3日には、湾岸戦争での「クウェートへの賠償」、「生物化学兵器の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議が採択された日であり、三日後に停戦合意が成されたのだが・・・・、いまアジアの東シナ海は、波立ってきている。ボンボヤ-ジュ。
(あらためて、73年前の日本人を誇らしく想う73歳の日)。
カテゴリ:あの時の、あのこと
これまでとは違った理髪店ビジネスモデル
投稿日: 2012年7月17日
昨年から行くようになった僕の理髪店について話して見たい。
そこは、ビルの谷間にある二階建ての理髪店だが、経営形態に次代のビジネス フォーマットのヒントが見えたからだ。
済んでいるところからは、山手線で一駅あるいたところにそれはあった。試み に入ってみる動機は、「65歳以上1800円」という張り紙だった。洗髪顔剃 りもやってくれて、だ。年金生活者にとっては、町内の3500円の理髪店も、 駅前の1000円店も、不満だった。
それについては、後述するとして、見つけたこの店は、通常の理髪店と違って、 月曜日でも営業してくれていた。値段の割に、予想以上に、丁寧で上手い。肩 たたきの電気マッサージを当ててくれることはなかったが、髭を何ミリにする かまで、きちんと訊いてくれる。
何度か通う内に、驚くことがあった。順番で呼ばれる毎に、理髪師の顔が違う のだ。
つまり、何人もが勤めているのに、何人かが休んでいる。店内の掃除をする若 い人は、中国人留学生だろうか。きびきびと手際よく働くが、無口で、時折口 にするアクセントが、地方出身とは思えなかったからだ。専門学校に通う留学 生だと思われる。
この店の面白さに気づいたきっかけは、ほんのちょっとした会話からだった。
「店長はどなたなのですか?」軽い気持ちで訊ねた。
「いや、ここにはいませんよ」と苦笑いをする。
「ああ、お休みですか?」
「いや、店長はいないのす。家主さんが、ここを貸してくれているんですよ」
質問と推測を織り交ぜて行くと、こうだ。
まず、この二階建ての理髪店は、1階に4台、2階に4台の理髪台があるが、 什器類付きで、理髪師に貸し出されている。理髪師は、順番待ちの客を座らせる。
つまり、なんと、一人一人が店長である。
このため、客との会話にも、それぞれに味がある。
これが実に面白い。
鋏のアクションも、タオルの捌きかたも、シェービングクリームの塗り方も、 一人一人に、これまでの歴史が刻み込まれているように見える。
ここから、理髪店市場の攻防が見えてきた。
かつて住宅地で営んでいた店長も、息子が後継者にならないという悩みから、 やむを得ず廃業。
何棟もの公団住宅を客にしていた理髪店が、子供らが独立結婚して立ち去った。
数人を雇っていたが、客を1000円店に取られ、閑古鳥が鳴いた。
よしんば、若者が住む街で有りながら、彼らの足は美容院へ流れてしまった。
技術はあるのに、まだ働けるのに、雇用問題から解放されたい、資金繰りを忘 れたい。
地元の客では、気を遣う。独りなら、気が楽だ。
好きなときに休めれば、まだ まだやれる。
若い客層でないなら、構わない。
繁華街にある理髪店でも、店主が高齢化して、家族が引き継ぐには問題があり、 什器類を外して、店舗を売却するには、立地条件の価値が無駄になる。
ならば、居抜きで、人の貸し出そうと考えた。
生活情報が得られた銭湯も床屋も、生活様式の変化と世代交代が、。
新しいビジネスプラットフォームを生んでいく。
固定店を流動的に運営するケースは、新宿のバーで体験したことがある。
11時半になると、ラストオーダーが打診される。リストウオッチを見ても、
新宿駅の最終電車には、1時間弱はあるがと訝ったところ、
そのまま、居続けてもいいのですが、システムが変わりますという。
誘い出した友人が笑って説明するには、 11時半までは、日本人ママの経営で、それを越えると、女性も入れ替わって、 韓国人ママになるという。当然、店の名前も変わるという。
回り舞台に出演でもしているかのように、妙な時間が生まれる。
このシステムを教えたかったのだと友人は悦に入っていた。
器は有効に活用し、運営する人材は、適宜差し替える。
単科の開業医の難しさから、医療ビルを建設して、専門医がテナントと入居で 総合病院化することが進んでいる。大型医療器具への投資が、開業医のフォー マットを変えているのだ。
古くは、欧米での居抜きの不動産売買であり、
近くは、廃校となった小スペースのSOHO(small office home office)への 転用である。
まさに「量体裁衣」、「臨機応変」。
浮世風呂から銭湯へ。銭湯から床屋へ。
床屋から理髪店へ。 理髪店から1000ショップへ。そして、個人個店へ。
古くて新しい潮流ではないか。
話を理髪店に戻す。
かつては、三軒茶屋のマスターでなければと、社会人になっても神田から通い 続けたものである。
その後、会社が丸の内のビルになった時は、エリートの勤務するエリアだから、 センスもいいと、
仲通の店に通い、人伝で交通会館のバーバーショップが腕がいいということで 変わり、
40代を過ぎると、床屋は、やっぱり、ゆったりとした時間で世間話が聞ける ところがいいと、”
上野桜木の店になった。新しく建ったあそこのマンションは壁が薄くて困って いるだとか、御輿の担ぎ手が足りないとかで、どこかの祭友会の応援を頼んだ んだとか、通りの向こうの安い駐車場が空いただとかの話だ。
ところが、定年を迎え、講演回数も減ると、ヘアデザインなどどうでも良く、 さっぱり出来ればいいと、今度は1000円ショップにしてしまった。髭のミ リカットをなんとかしなくてはと、髭専用のトリマーを購入した。 1000円店には、4回通った。しかし、毎回、彼ら技量に酷い差があった。
大きな姿見の前で、シンプルな椅子に腰掛け、私服の出で立ちで踊るように鋏 を使われる。ちょっとした美容院気取りだ。美容師よりも数をこなすから腕が 上がるという評価もあるが、反面、1000円だから、上手いか下手かよりも 早いということで、不満を口にする客も少ない。それを価格面から許せるかど うかだが、専門学校出の登竜門と受け取れば、対面セールスマンにとっては、 短時間での身だしなみに便利なことだろう。ジモジーの店員が居るわけではな いので、店周りの世間話をしても応えられない。また、そんな呑気な時間も ないのだ。
この先駆者的チェーンストアとなったQBハウスは、駅構内からスーパーマー ケットに展開して、驚く間もなく、シンガポール、香港に進出し、今度は台湾 へ展開だ。300台湾ドルで、40店舗を目指すという。さらに、中国も計画に入ったようだ。 そういえば、東南アジアでは、路面で髪を切る風景を未だ見受けるので、その シンプルな客サービスに抵抗感は、なさそうだ。
カテゴリ:東京下町ぶらり
はじめに
徒然なるままに、書きますが、街で耳にしたこと、眼に入ったこと、などなど、生活を変えるかもしれない小さな兆しを見つけたいと思います。